青は遠い色             第七章

 既に傾いた陽射しの差し込む寝室に、リュミエールはいた。
 リュミエールは勢いよく起きあがる。強く頭が痛んだが、それ以外は別状はない。
 扉が開く。
「オリヴィエ・・・」
「ああ、目、覚めてたんだ!」
 彼は歩み寄りリュミエールの額に手を当てた。
「良かった、熱ひいたみたい。ほんと、アンタがびしょぬれになって帰ってきた時には驚いたよ。いくらアンタが水の守護聖だからってね、雨が降ったら雨宿りくらいしてよね!」
 彼はそう言って笑った。その笑い声に、オスカーも部屋に入ってくる。
「ご心配をおかけしたようですね、二人とも。本当に申し訳ありません」
「二人だけじゃないぜ、心配してんのは。その花の送り主にもきっちり礼は言うんだな」
 彼はベッドの脇に置かれた花を顎で指し示した。既に遠い昔のようにも思える、彼が買った花に似ていた。
「マニエラですね・・」
「うん。昨日持ってきてくれたんだけどね。アンタが熱出して寝てるっていったら、走って買いに行ってた。可愛いよね」
 昨日、ということは一日既に経っているのか。
「何があったか知らないが、レディにあんな顔させるのはいただけないな」
「なんかアンタよりやつれちゃって・・・あのコの方が倒れるんじゃないかって心配だよ。知らせてあげなきゃねー」
「私が・・・それは私がします。今からでも・・・」
 リュミエールはベッドから足を降ろした。慌てて二人がそんな彼を制す。
「あの様子じゃまた来るんじゃない?大丈夫、待ってたほうが確かさ」
「それともすぐさま会いたいか?」
 オスカーの言葉にリュミエールは面食らった後、つい吹き出した。
 その通りだったからだ。
 あれほどの思いをして、なお、まだ自分は彼女に会いたいなどと思っている。雨に打たれたところで何も変わりはしなかった。自分の愚かしさに驚きよりも笑いがこみ上げる。
 さもおかしそうに笑い続ける彼に、二人は怪訝な顔をした。
「おい・・・熱でアタマやられたのか?大丈夫か、コイツ」
「大丈夫ですよ、オスカー。正気も正気です。彼女にはお礼と・・・お別れを言わねばならないと思って」
 旅程の期限はもうわずかだ。ここにそうゆっくりもしていられない。どっちにしろ別れの時は最初から決められているのだ。
「あなた方には迷惑をかけました。せっかくの休暇、私のせいで足止めばかりで」
「まあ、こういうこともあるでしょ。ガツガツ歩き回るだけが旅行じゃないしさ」
「本当に・・・今回の旅は私にとっては・・・かなり有意義なものでした。聖地にいてはわからなかったことを・・・思い知りました。旅はしてみるものです」
 オスカーが即座に口を挟んだ。
「お前、さっきから何だかやけっぱちだな。言葉にも随分含みがある。そんな言い方されると誘ったほうとしてはいささか気分を害するぜ」
「正直な方ですね、あなたは。それが私にあったなら・・・今更このようなことには」
「どーゆー意味?」
「あなたが言ったんですよ、オリヴィエ。もっと自分の事を考えろと。そして私は知りました。本当の自分を。今まで自ら押し隠し見ないふりをしてきた本来の私という人間を」
 彼は窓に視線をやった。あの雨はすでに跡形もない。
 オリヴィエがからかうように言う。
「本来の自分?ふうん、どんなヤツなわけ、リュミちゃんって」
 リュミエールは微笑んで言った。
「あなた方は既にご存知のこと。私だけがわかっていなかっただけのことです・・・お陰で酷く傷つけてしまった・・・」
 再び花を見る。
「なんだ、お前があのお嬢ちゃんにイカレてるって話か?ご大層に何言い出すかと思えば」
 これだから女慣れしてないヤツは、とオスカーはつまらなそうに言い添えた。彼の挑戦的な台詞にもリュミエールは表情を変えなかった。
「ふふ、そうかもしれませんね。言うとおり、初めて知りましたよ、こんな自分を。ですが・・・あなた方がこれをも恋と呼ぶのなら、ならば・・・私は・・・もう恋などいりません」
 水の守護聖の独白は続く。
「私が知っている恋とは、相手を愛しいと思う感情とは・・・もっと・・・やわらかで暖かく、日溜まりにも似た穏やかなものです」
 相手の仕草に目を細め、相手の声をゆったりと聞き、眠る前に今日見覚えた笑顔を思い浮かべ床につき。・・・それが本来あるべき恋。己の成長さえ促す幸福な感情。
「こんな、このように胸が悪戯にざわめき、いても立ってもいられず何かに駆り立てられるように常に落ちつくことはなく・・・私は望みません、このような感情を。何故あなた方が恋を至上とおくのかさえ、私にはわからない」
 言いつつなおも過ぎるあの笑顔。自分を魅了してやまない瞳。
 彼の言葉は次第に感情的に高ぶる。
「誰からも遠ざけ、閉じこめておきたくなる。誰の目にも触れさせたくない。そんな傲慢な身勝手な感情に知らず支配されている私を、私は知りたくなかった。そう、彼女をもっと知りたいと思うあまり、彼女の笑顔を求めるのと等しく傷ついてやつれる彼女の姿さえ想像しているのです、今の私は」
 彼は自らを嘲るように叫んだ。
「・・・そんな醜い感情をも恋と呼ぶのなら、私は恋などもうしたくない!」
 オリヴィエはすっと立ち上がり、窓辺に寄った。
「でもさ」
 振り返ってオリヴィエは、表情を変えずにリュミエールを見る。
「生きてる感じ、するでしょう?聖地でひとり、ハープなんか弾いてるよりは」
「・・・・・・・・・」
 永遠に消えることのない、雨のしずく。それは繰り返し姿を変えて己の身を打って。不意の雨に見舞われるように、迷い、苦しみ、悩みから人は逃れることはできないのか。そこを辛いと思うのは、自分の弱さなのか。弱いからこそ、誰かを求めるのではないのか?苦い思いに苛まれるのをわかっていて、なぜ人はこうも人を求める!
「・・・少し・・・ひとりにしていただけないでしょうか・・・」
 旅も最後、二人は外出するとだけ言いおいて、寝室を出ていった。
 
 しばらくそのままでいたリュミエールは、ようやっとゆっくりとベッドから離れ、身支度をした。とにかく、やるべきことはしなければならない。彼は沈んだ面もちでドアを出た。
 彼の目的はその途端達成されてしまった。
「・・・マニエラ・・・・」
「リュミエール様・・・」
 彼女が、ドアの前に花を置いて、まさに立ち去ろうとしていたところだった。互いに心の準備をしていなかったせいで、それ以上言葉が出ない。ただ見つめあうことしかできない二人だった。
 しかしいつまでもそうしているわけにもいかない。リュミエールは彼女を外へと促した。どこへ行く当てもないまま二人は並んで歩いた。
「お加減はもうよろしいのですか。リュミエール様」
「ええ・・。ご心配をおかけして。ああ、お花をどうもありがとうございました。今もまた、持ってきてくださったのですね」
「はい、ドアの前に置いて帰ろうと・・・本当に申し訳ありません」
「謝ることなど何もないのに。お心遣いに感謝します」
 彼は微笑んだ。しかし彼女はうつむいたまま視線を合わせようとはしなかった。あんなことがあった後では、無理もない。自分の顔など見たくなかったろう。
 再び黙々と歩を進める。
「あ・・・もうこんなところまで・・・歩いてきてたんですね、私達」
 マニエラの言葉に顔を上げる。彼等のいる場所は天文台のある森の入り口だった。いつの間にか、この場所へ向かっていたらしい。門はまだ開いている。どうせ行く場所など無い。二人は中へと入った。
 日中は一般にも見学を許している天文台も、夜は本来の仕事をする。明かりはあったが扉は閉じられて、中に入ることはできない。いやたとえ入れたとしても今の二人には既に到底踏み入れることのできない場所になっていた。
 天文台を避けるように、二人はなおも歩いて、適当なベンチに腰を下ろした。もう日は落ちきって、あたりは宵闇につつまれていた。
「今日は、お仕事は?」
「あ、あの・・・。もう、あの仕事はやめます。もう、大金は必要でなくなりましたし」
「そうですか・・・」
 何か口にしては途切れる、ぎこちない会話。いたたまれない時間が続く。
 マニエラが呟くように言った。
「もう・・・お会いすることは無いと思っていました」
「それは私も同じこと。でもこれが最後です・・・もうこの星も立たねばなりませんから、せめてお別れだけは、と」
「・・・・・・・」
 彼女はなおもうつむいたまま、顔を上げない。膝の上に重ねられた白い手が震えている。リュミエールの胸は締め付けられた。
 ふとその視線の先、手の甲に落ちる、水滴。
 涙・・・?
「な・・・何を泣くのです、マニエラ!」
「ごめんなさい・・・ごめんなさい、リュミエール様・・・・っ」
 何のことを言っているかと彼が問いかけても、彼女はしゃくり上げ、その後もひたぶるに謝り続けるばかりであった。
「本当に・・・リュミエール様には酷いことばかり・・・こんな私に、あなたの前にいる資格など本当は無いのに」
「謝ることなど・・・いったい・・・」
 一方的に泣かれ、おろおろするばかりのリュミエールだった。とりあえずハンカチを手渡した後は、彼女が落ちつくのをただ待つしかできなかった。
 
 どれくらい時間が経っただろうか。少し周囲の空気が冷えて感じられる。彼は上着を脱いで、相変わらずうつむいたままのマニエラの、未だ震える肩にかけた。
 彼女がゆっくりと泣きぬれた顔を上げる。
「ご・・ごめんなさ・・・」
「もう謝らないでください、マニエラ。せっかく涙も枯れたというのに」
 リュミエールの言葉に彼女の顔は複雑に歪んだ。無理に作る笑顔とも再びの泣き顔とも、それはとれた。
「私なんかに・・・どこまでもお優しくて・・・本当に・・・」
 振り絞るような声。
「もう会えない、合わせる顔などないと言い聞かせても、気付けば未練がましく花など置きにいって。・・・醜い自分を晒すことになっても、リュミエール様に一目お会いしたいと、どこかで期待して・・・」
 会いたい・・・?あれほど酷い真似をした自分に?
 聞き間違いに違いないと、彼はそう思った。マニエラは強く頭を横に振る。
「あなたは酷い真似などしていません、私は傷つけられてなどいません」
 ならば自分の言ったことがまるで伝わっていないということか?
 マニエラはそれにも頭を振った。そうして背後に見える天文台を振り返った。
 ここへきてからというもの、二人の耳には、小さくではあるが低い唸るような機械音がずっと途切れることなく聞こえている。あの雄大なオブジェは、もう長い間ずっとそうしてきたように、今夜も変わらず静謐な空間で星空を仰いでいるのだろう。
「あの場所での出来事・・・あなたのお心を知るのと同時、それに応えたくとも応える資格などない自分も知りました。なんという皮肉・・・・」
 洩れる嗚咽。こみ上げるものを呑み込んで、無理に言葉を継ぐ彼女。
「自らを欺いて、人を蔑んで、問題から目を背け、偽りの満足に逃避して。そんな私の罪を知らしめる為に、あなたは私の前に現れたのだわ。あなたの口づけは・・・私への罰なんだわ。・・・なんて甘くて残酷な罰・・・」
「待って・・・待ってください!」
 リュミエールは鋭い声で、執拗に己を責める彼女を制した。
 罰などであるはずがない。そんな意味があってしたことではない。
 自分が、そうしたかったから、した。
 彼女も自分も傷つける、わかっていて想いを抑えられなかった。そのせいで苦しむことなど当然のことだ。咎められるべきは自分だ。罪だなどと言ってくれるな、これ以上の後悔には耐えられそうにもない・・・!
 彼は彼女の肩に手をおき、きっぱりと言った。
「あなたが罪を感じることなどなにひとつない・・・いいえ、あなたがそれを罪と思うなら思ってもかまわない」
 だが罰を受けるのは自分ひとりでたくさんだ。
 それが自分にある唯一の勇気。彼女を恋した自分に残された、唯一の誠実。
「リュミエール様・・・そこまでおっしゃって頂けるのは心から嬉しく思います。でも」
 少女はまっすぐに彼を見据える。
「それでは私の誠実は、どこで表せばいいのですか。罰を受けずに罪の償いを、何ですればいいのですか。・・・あなたに肩代わりをさせて、罪を抱えたままのうのうと生きていけと?」
「・・・・・・・」
「そんなこと、できません。・・・もう私は気付いてしまった、守護聖様としてではなくあなたを、見ている自分に。・・・身の程知らず・・・でも、この気持ちに嘘はつけません」
 もうこれ以上自分を偽ることはしたくない。だからこそ、自分を許したくない。
「苦しいのは、辛いのは、あなたのその優しい微笑みを、今まで知らず犯していた罪の戒めとする以外、思い浮かべてはいけないということ。でもそれだって今までの自分、目を閉じ耳を塞ぎ、真実に背を向けていた自分に戻ることよりずっとまし。私はいくらでも耐えて見せます」
 そう、まるで同じだ。自分の心を読みとるかのごとく、同じ想いを口にする目の前の少女。何も変わらない。奇跡のような偶然の果てに引き寄せられたのも、きっと互いに同じものを感じとっていたから。
 なのに。これが罰だというのか。出逢ったことも惹かれ合ったことも、すべては二人が知らず犯した過ちの果ての過ちだと。  
 リュミエールは溜息をついて、再び天文台を振り返った。星明かりに浮かぶドーム。
 二人の身の内にある望遠鏡は、今まで間違ったものばかり映してきたのだろうか。何の役にも立たないデータを延々と記録し続けていたというのだろうか。
 初めてここへ来たときの、彼女の軽やかな声が頭に過ぎっては消えていく。
 ・・・・長い長い期間・・・無闇に替えることは・・・差が出すぎて・・・。
 同じ声が彼の思索を破った。自らに言い聞かせるように彼女は言った。
「私は強くなります。あなたに恥ずかしくないように。明日からは決して振り返りません。あなたを思い起こさずとも、敢えて戒めがなくとも先に行けるように。まず私がすることはあなたを・・・忘れる勇気を持つこと。水の守護聖様ではないあなたを、忘れること」
 
 リュミエールの中で何かがはじけた。
 違う、それは違う。後ろを振り返らないことは、強さではない。弱さだ。後ろを振り返ることさえ今は怖くてできない。弱いが故に自らを断罪することができないから、誰かに何かに罰を受けたい。この先も共にいられない、今夜を限りと会うこともない。そんな罰に耐えてみせると胸を張っても、それは問題をすり替えているだけ。
 対象が変わったとて同じこと。償いにはならない。
 そう言ったのは他ならぬ自分ではないか!
 彼は笑った。それは楽しげに。
 日々の星の記録と同じく、あの日の出来事も刻まれて消せない。事あるごとに消していては、いつまでたっても値が出ない。それこそ意味が無い。
 
 この恋は間違っていない。  
 なんということだろう、すべてが反転し意味を違える。あれほどの絶望が今は喜びに変わっていく。雨のしずくが変化を始める!
「・・・・罪はある、二人ともに。しかし、罰を受けている暇は無いのです、私達は先にゆかねばならない」
 
 そう呟いてリュミエールは再び空を仰いだ。満天の星が、木々に囲まれ広く開けた空に瞬いている。言葉を失うほどの美しさだ。ここに座って随分時が経つというのに、今更ながらにそんなことを思う。
 不思議なものだ。心ひとつで見えるものがある。見えなくなるものがある。
 
「あの星・・・まるで私達のようですね」
 視線の先にある、寄り添うように並ぶ二つの星を指して、リュミエールはそう言った。
唐突にも思える彼の言葉に、マニエラは疑問符を浮かべながらも同じく彼をならって空を見た。そして頷く。
「ええ、本当に」
 その声は寂しさの色を少しだけ帯びていた。
「そして・・・この場所からはそう見える、それだけのこと。実際はあの二つの星には遠く隔たりがあって、他の場所から眺めたら並んでもいない・・・本当に私とリュミエール様と同じ」
「ですが・・・星はそれを哀しみはしない。ああしてひとり輝くことをやめはしない」
「・・・・」
「ならば私達も、あの星々を心の支えといたしましょう」
 彼は視線を星から動かさぬまま、言った。
 たとえ遠く隔たりがあっても。けして近づくことはなくても。
「光を放ってさえいれば、あなたは私を見つけてくれるでしょう。私もあなたの星を見つけたい。出逢って、はじめて知ったのです、同じ想いを抱いた星を。この場所から見れば寄り添うように光る、とても良く似た星」
「同じ孤独を知ってなお光る・・・」
 幾億の星。そのさなかで出逢えた幸福。たとえ瞬きほどの間でもかまわない。この瞬間の熱はとほうもない時間をかけて宇宙の塵を引き寄せて、新しい星を作るかもしれない。



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