青は遠い色             第五章

「あ、おかえり。意外と早かったね」
 オリヴィエが戻ったリュミエールに即座に声をかけた。オスカーは無言でソファに寝そべったまま顔も向けない。リュミエールが出て行ってしまった以上、彼等としてはどこへ行く訳にもいかなかっただろう。リュミエールは少々反省した。
「すみません、あなた方には随分と無為な時間を過ごさせてしまいましたね」
「いいよ、そんなの。ね、突っ立ってないで座ったら?」
 オリヴィエがソファを横に移り、リュミエールの為の場所を空けた。
「・・・で?会えたわけ、彼女には」
「ええ、それは・・・」
 のろい動作でリュミエールがソファに腰をかけると、向かいのオスカーも面倒くさそうに起きあがる。彼の『説得』が上手くいかなかったことは誰の目にも明らかだった。
「だから言ったろう。・・・おせっかいはよせって」
「そーゆーこと言わないの、オスカーも」
 オリヴィエはリュミエールのほうに向きなおり、軽く肩を叩く。
「ま、そんなに落ち込まないでさ。聞かせてよ、話。アンタのおかげでワタシ達随分暇しちゃったしー、そんくらいの権利あるよね」
 リュミエールは頷き、事の次第を起こったことだけ端的に、彼等に語った。
 
「・・・それで・・・終わりぃ?」
 オリヴィエが開口一番言った。オスカーも同様にあっけにとられている。
「まったく、お前ときたら・・・こうまで何もわかっちゃいないとは・・・普通帰ってくるか、そこで!!!!!!!」
「え・・・?ですが・・・これ以上私に何ができると・・・」
「私らにはあれだけ頑固押し通して怒鳴って飛び出していったの、アレ何よ〜。ほんっとわかんない!リュミちゃんて。それでそんなに簡単に帰ってくるって」
 オリヴィエの声にも軽く苛立ちが混じる。
 わからないのはこっちのほうだ。行ってどうするのかと、マニエラに踏み込むなと。あれほど反対していたのはこの二人のほうではないのか。
「あーあ。・・・花持って部屋行く、なんてくだりには結構わくわくしたのにー」
「あなた方を楽しませるためにしたことではありません!」
 オスカーが鼻でせせら笑った。
「じゃあ誰のためだ?何の意味だ?聞かせてもらいたいぜ、俺は」
「・・・・・・」
「勇んで行って簡単に言いくるめられてりゃ世話無いな。何が”合理的”だ。そんな考えだから、訳のわからんことにすがってなきゃいられないんだ。・・・まったく気に入らないぜ」
 いかにも小馬鹿にした口調に、つい敏感になり横目で睨み付けるリュミエールだった。そう、強さの守護聖の彼ならそう言うだろう。だが彼女の痛みを知った後、自分はそうは言えない。たとえ荒唐無稽なものであっても、事実彼女が救われ癒されているのなら、自分に何が言える。
「あれほどの才を失うことがどれほど辛いか・・・私には容易に理解できます。自分だったら耐え切れぬかもしれません。同じように何かにすがってしまうかもしれません。すがるにも理由があります。皆があなたのようにできるとは限らないのです、そうしなければいられない、心弱き者への配慮も少しは・・・」
 語尾を高笑いがかき消す。
「それは俺の力の範疇じゃない。お優しい水の守護聖サマがやるべきことだろう?」
 それができるのならこんなに苦しみはしない。
 リュミエールは唇を噛んだ。
「あなたと私の力は違う、その通りです。・・・あなたはいい・・・」
 オスカーだけでない、他の守護聖すべて。水のサクリアは他の力と明らかに違う。
「誇り、安らぎ、知、・・強さも美しさも勇気も器用さも豊かさも!皆他の力は求めて得るもの、今の自分をより幸福に、より高めるためのものです。なのに水のサクリアは・・・この力だけは既にある負を補うもの。既にある人の悲しみの上に成り立つもの」
 人は誰もが、事の大小の違いはあれ何かしらの苦悩を心に抱いている。それを感じとる自分、そしてそれを癒す力を持つ自分。なのに、いくら自分がこの与えられた聖なる力を宇宙に満たそうとしたところで、そんな悲しみはそこかしこで生まれ続け潰えることはないのだ、永遠に。日夜尽くしても尽くしても、まさに焼け石に水だ。
「いつも人の哀しみに隣り合わせ。このような力を司る私の想いなど、あなた方は考えたこともないでしょうね」
「・・・そんなこと今ここで議論したって何にもならないよ、リュミエール」
 オリヴィエは目を伏せた。仕方ないこと。一気にすべてを魔法のように解決するのにこの宇宙は広すぎ、時は少しも待ってはくれない。
「それはどの力でも同じさ、諦めるしかないんだ」
 ふとマニエラの話を思い出した。小さく笑いが洩れる。
「オリヴィエ、オスカー。この宗教での水の守護聖は、癒しの力などいらないと言ったそうですよ。こんな力はキリがないだけ、人々の苦悩を癒すことを考えるより、苦悩の無い世の中を最初から作ればいいのだと。・・・確かにその方が『合理的』ですね。本物などよりよほど素晴らしいことを言う」
「バカバカしい、これ以上話す気も失せるな・・・俺はちょっと外をぶらついてくる。そっちの方がよほど得るものがありそうだ」
 オスカーはやおら立ち上がり、苛立ちを歩調に込めてドアに向かった。
「リュミエール、ひとつだけ言っておく」
 立ち止まり、背中を向けたままオスカーは言い放った。
「女ってのはな、理解されるべきものじゃない・・・愛されるべきものだ」
 直後、耳をつんざくほどの音とともにドアが閉められた。
 
「やっぱ無理あったよねーこのメンツ・・・・」
 オリヴィエの溜息に、リュミエールが詫びた。
「申し訳ありません・・・。言い争うつもりは無かったのですが。嫌な気持ちにさせてしまいましたね」
「ワタシのことは別にいいよ。どっちの言い分もわからないではないし。・・・っていうか、わかっちゃうのがワタシの欠点なんだけどねー。ほーんと頭が良すぎるって困っちゃう〜」
「欠点などと・・・私には羨ましい。未だにあなた方が何故こうしたことを言うのか、私にはまるでわからないのですから」
「本当に?わかんないの?」
 軽い口調から一変して、オリヴィエの声が低くなった。
「・・・なら考えた方がいい。アンタはもっと自分のことを」


 自分のことを考えろ?そんなもの、考えすぎるくらい考えている。考えるべきでないところでまで。これ以上どうしろと言うのだ。
「さて、と。私もどっか流してくるよ、お店でも。リュミちゃんも適当に・・・」
 その時、ドアが軽くノックされた。オリヴィエが開けると、そこにはマニエラが立っていた。
「ああ・・・!いらっしゃい。リュミちゃんに用?」
 彼女は頷いた。オリヴィエは邪魔者は退散するとばかりに彼女の横をすり抜けて出ていった。
「すみません、急に」
「いいえ、良いのですよ。少しお待ちください、共に外に出ましょう」
 


 
 外へ出ると、風景は面変わりしていた。確か今日は気持ちよく晴れ渡っていたはずだった。しかし今は幾重にも薄雲が覆っている。
 今日は予定は無いから、と、彼女は天文台へと誘った。
「この近くにはこんなものしかなくて。でも私の好きな場所です」
 自分の様子を気遣って来てくれたのだろう。そんなさりげない優しさが、純粋に嬉しい。先ほどまで会わせる顔がないとまで思っていたくせに、微笑みさえ返し歩を合わせる自分が不思議だった。
 
 街から少し離れたところに、深い森にかこまれて、それはあった。門をくぐり、小道をしばらく辿ると、突然空がひらける。目の前には覆う雲の色と同じ薄いグレイのドーム。古く由緒のあるものなのだろう。長い時間を経た跡が壁に屋根に残っている。森の中にそれは悠然と、しっとりその場所に馴染んで堂々と存在感を放っていた。
 彼女はリュミエールに丁寧な説明をしながらそれを目指して歩く。天文台とは星の観察や発見をするだけの場所と思っていた彼は、ここで蓄積されたデータが暦を作ったりすることを彼女の話で改めて知った。
「長い長い期間データを取って、その平均値を出していかなくちゃならないから、古い望遠鏡をずっと使っていた方が都合が良いんですって。途中で最新のものに取り替えてしまうと差が出すぎてしまうから」
 そんな理由から、ここ場所は古いまま残されている建物が多く、心が落ちつくのだと彼女は言った。
「お詳しいのですね」
 感心する声に、彼女はいささか頬を染め、すべて受け売りだと言って照れる。マニエラの仕草のいちいちが愛らしくリュミエールの目に映っては焼き付いた。
 入り口で手続きをして、二人は中へと入った。彼等以外に人影は無い。
 彼女は手慣れた様子で彼を奥へと導く。
 通常の時の流れとは別の、ひんやりと、頬をなでる空気に洗われて、たったさっき、オスカーと言い争ったことなど嘘のように思える。彼女がホテルに現れた時、一瞬躊躇があった。しかし来て良かったと今は思う。
 確かに自分も心が落ちついていく。ここは悠久の星の巡りを見守る場所。聖地に似たものを感じとっているのかもしれなかった。
 長い廊下の奥の、重い扉が開かれる。暗い空間に扉のきしむ音と二人の足音だけが反響する。彼女によって小さく灯された明かりに照らし出されたそれに、リュミエールは思わず息を呑んだ。
 中央に据えられた巨大な望遠鏡。高く弧を描く天井に向けて矢を放つように雄大に直立する無機質の機器。なのに、完璧な世界感を持った芸術作品と変わらない感動さえ彼の心に湧きあがった。
 首が痛くなるほど、望遠鏡の先、天井の頂点を無言のまま見つめ続ける。
 静謐な時空間。侵しがたい場所。そう、まるでここは聖堂のようだとリュミエールは思った。
「ただ・・・これだけのものなんですけど」
 今はまだ夜ではなく、観測が行われている訳ではない。開くはずの天井はぴっちりと閉じられ、望遠鏡のレンズには何が映るでもない。つまらないかもしれない、マニエラはそう思って不安になったのか、黙り込むリュミエールに伺いをたてるようにそう言った。そんな彼女の声にも小さくエコーがかかる。
「いいえ・・・!」
 静かに、この空間を壊すまいと気遣うように。リュミエールは声を抑えて答を返した。
「美しい、なんと美しいのでしょう・・・・。このような場所には初めて来るのですが、こんなに素晴らしいとは思いもよりませんでした」
「良かった・・・、きっとリュミエールさんならわかってくださると、そう思ってはいたんです」
 安堵から彼女は深く息をついて、微笑む。イメージの連想なのか、慈愛に溢れた聖母の壁画にも重なった。何もかもが美しく、そして穏やかに彼の中に染みいる。
 二人は壁際に据えられた簡素な椅子に腰をかけて、なおも上を仰いだ。いくら見ていても見飽きることなどない。自分たちもその空間の一部になっていく。
 しばらく経った後、沈黙を破ったのはマニエラの方だった。
「・・・リュミエールさん・・・・。ひとつ、質問しても良いですか?」
「え?なんでしょう、私に答えられることならば・・・」
 彼女は一旦目を閉じ息を整えてから、覚悟を決めたように顔を上げた。
「あなたは・・・単に同名なのではなくて、真実、水の守護聖様なのではありませんか?」


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