青は遠い色             第四章

 教わっていた連絡先から、彼女のアパートメントの前までは問題なく来ることができた。しかしリュミエールはもう既に随分と、扉をノックするところで迷っていた。勢いで飛び出してきたものの、約束があるわけでもない。いや、そんなことは小さなことだった。迷っているのは他の部分で、だ。
 何度目かの勇気を振り絞って拳を掲げた瞬間、ドアの方から勝手に開いた。
「あ・・・」
「あら!リュミエールさん!!」
 素直に驚く愛らしい声に、何故か救われる気がする。リュミエールは微笑んだ。
「こんにちわ。・・・昨日のお礼と思いまして」
 道すがらに買った小さな花束を差し出す。
「・・・まあ・・・・可愛い・・・・。ありがとうございます、わざわざ・・・」
 マニエラは花を受け取りうっとりとその香りをかいだ。
「ああ、こんなところに立たせっぱなしじゃ・・・どうぞ入って、狭いところですけど」
 
 ひとつだけある大きな窓から光が差し込んで、明るい。部屋は、シンプルだが整然としていて、彼女の人柄をそこかしこに見る。リュミエールは小さな木の椅子に座り、彼女がてきぱきと茶の支度をする姿を見ていた。
 忙しくキッチンの上を左右する白い手。軽やかな動きに合わせて揺れる髪。湯の沸く音をベースに、食器が当たる高音がアクセントをそえる。まるで心地よい音楽を味わうかのように目を閉じる。瞼の上から感じる溢れる光と、耳に響くシンフォニィが身を柔らかにつつみこんだ。
 マニエラがティーカップをのせた盆を持って振り返る。リュミエールの目の前、テーブルにカップを並べながら、横の花瓶を見て彼女は目を細めた。
「この部屋にお花があるなんて、本当に久しぶり。一人暮らしでしょう?そういうものってどうしても後回し。でもやっぱり部屋の雰囲気全然違う・・・これだけで心が癒される気がするわ」
「喜んでいただけたなら嬉しいです。女性に花を買うなど、私の方こそ慣れない真似で。ただ・・・この花を見たとき、まるであなたのようだと・・・、そう思ったので」
 喜ぶマニエラとは裏腹に、リュミエールの心中には理由なく一抹ざらついた想いが過ぎった。
 嫌な想いを振り切るように軽く頭を振った。ふと、部屋の隅に立てかけられたものに目が留まる。リュミエールは嬉しくなった。
「スケッチブック・・・。絵をお描きになるのですか?」
「あ、ええ・・・」
「私も絵を描くのが好きなのです。ほんの手慰みの域ですが。見せてはいただけないですか?」
「そんな、お見せするようなものじゃ・・・昔のものだし・・・単なる下絵だし・・・」
 彼女は少々頬を赤らめ、照れを隠すようにカップに添えられたスプーンを所在なくいじっている。
「別に私は鑑定家でも批評家でもありません。あなたの描く絵が見たいだけです、良いでしょう?」
 やっと見つけた共通の話題である。なかば強引に押し通し、リュミエールは立ち上がってスケッチブックを手に取った。
 ページの一枚目を見ただけで、彼女が言ったことが謙遜であることを知った。
「これは・・・素晴らしい」
 下絵と事前に言われなければ、これが完成した作品と思ったろう。緻密に細部まで描きこまれ、すべての線から溢れる想いが伝わってくる。


 ページを繰る手は早くなった。
 風景、静物、様々なモチーフが次々に現れる。細密画の類であるのに、不思議と受けるイメージはどこまでも柔らかで優しい。いつならば世界はこんな幸福そうに見えるのかと、同じ絵を描く者として聞いてみたくなるほどだった。眺めているだけで満ちる穏やかな幸福感と、同時湧く羨望。
 彼は最後のページまで無言で隅々まで見つめては最初に戻ることを繰り返し、最後に諦めたように感嘆の溜息をついた。
「これが下絵なら・・・キャンバスに完成させたものは無いのですか?さぞかし見事なものでしょうね」
「残念ながら・・・ここにはありません。今はそのスケッチブックさえ開くことも無いし」
 今はもう描かない?これほどの腕があって何故に。彼は素直にそう聞いた。
「描かないんじゃなくて、描けないんです、もう」
 率直な疑問に、マニエラはごく自然に答えた。
「事故で手を怪我して。日常生活には支障無いんですが、やはり絵は。思う通りに描けなくなって・・・。リハビリを続けていればいずれ、と励まされもしたんですけど、以前なら難なくできたことができないことはやっぱり辛くて」
 確かに彼女のこの画風、指が自由に動かないのでは難しい。理由を端的に述べる彼女の笑顔が、よけいに胸を刺した。リュミエールはつい口ごもってしどろもどろに詫びた。
「ああ、気にしないでくださいね。描きたくて描けないんじゃ無いし。強がりではないんです」
 マニエラの白い指がスケッチブックをゆっくりとめくる。
「この絵も・・・この絵も。下絵だっていうのに馬鹿みたい、しつこく描きこんじゃって。そのくせようやっとキャンバスに完成させれば満足しなくて、もう次の下絵描いたりして・・・。あの頃の私ってほんと時間の無駄遣いしてたわ」
 彼女の言葉に、本当に無理も強がりもないことが、リュミエールを困惑させる。これほどの情熱を一笑に付す彼女が理解できない。
 彼女は明るく笑って話しかける。
「ね、リュミエールさん。私ね、昔、人から教えて貰って何となく印象に残っていた言葉があるんですけど」
「ある言葉?」
「ええ。『伝えたいことがあるのは足りないものがあるせいだ』っていう。絵を描くってそういうことだって」
 マニエラのかつて描いた絵を見ればわかるような気がした。
「その言葉に従えば今の私には、足りないものは無いんです。もう苦労して絵を描くなんてこと、しなくていいんです。満ち足りている・・・十分に。あの教えのおかげで!」
「あの教えというのは・・・あの・・・私のお借りした本の?」
 声が嬉しそうに弾む。
「まあ!もうお読みになって下さったんですか!嬉しい、少しばかり押しつけがましかったと後で後悔していたんです。良かった!」
 今までになく明るくなる彼女の表情。反してリュミエールの顔には苦い笑みしか浮かばない。その本を読んで説得に来たとは、そんな経緯を聞いてしまった後では到底言い出せない雰囲気になっていた。
「絵の勉強をするために親元を離れてここで暮らしはじめたのですが、怪我をして・・・この教えに出逢ったことで、自分がどれだけ甘えていたか知りました。自分の望む生を生きるためには、まず自活が必要だと仕事を始めて」
「・・・それが・・・あのような仕事・・・」
 無意識に口をついていた。なんという失言。リュミエールは慌てた。
「あ、その、職業的な蔑視があるという訳ではなくて・・・!・・・憶測で物を言って・・・」
「そんな動揺することありません、リュミエールさん」
 気分を害した様子は少しもない。
「確かに私は街角に立つ売春婦です。驚かれるのも無理ないわ。リュミエールさんとはあまり関わりのない類の女でしょうし。・・・到底女を買うような方には見えない」
 そう朗らかに笑って言われても、どう反応したら良いのかもわからない。
「でも、合理的なんです、あの仕事が一番。ただそれだけの理由で選びました」
「合理的・・・・?」
 この文脈で聞くと、ひどく冷たい響きを持つ言葉だった。彼女の口から聞きたくはなかった、瞬時にそう思う。
「収入も勿論ですけど、あの仕事をしていると、わかるんです。無自覚に大きな欠落を抱えている者達のなんと多いことか。女を買うことで、小さな自尊心を満足させている矮小な人達・・・。私は憐れみを憶えます。そんな人達に身体を与えることなんて私の何を変える訳じゃないわ。彼等をやるせなく思う時はありますけど、逆にその気持ちは私の信仰心を強くしますし。自分さえ見失わなければ他の職業と同じだと思っています」
 マニエラはきっぱりとよどみなくそう言った。
 言葉を失うリュミエールだった。
 説得に来た彼こそが、どうどう巡りに陥ってしまっていた。彼女の言い分はある意味明解だ。一般的では無いかもしれないが、個人の考え方として彼女がそう思うことは自由なはずだった。
 彼女の痛みや悩みを誰が今更肩代わりできるわけもない。自ら乗り越えようと見つけた救いの道が、信仰だったのだ。そこを他人の自分が何を言えるというのだろうか。おせっかい。説得など無駄なことだというオスカーやオリヴィエの言い分は正論なのだ。
 なのに。そうまで理解してなお、この胸に広がるどうしようもない違和感はなんだろう。空虚な寂しさは、いったい。どうして自分は納得できない?
 
 黙ったままの彼を気遣うように茶をすすめ、マニエラはなおも話す。
「絵を描いていた頃の私はいつも一枚仕上げる度に、不満ばかり。私の描きたかったのはこんなものじゃないと、そう思って、いつまでも満ち足りることなどなかった」
「ですが!」
 だからこそ・・・いつか理想の線を引く為に描くのではないのか。自分の内にあってたどり着けぬ場所を追い求めるのではないのか? 
「勿論そうなんでしょうね。でもそれって苦しいし何の保証も無いでしょう?もう良いんです。たとえ指が自由に動いても、今の私には絵を描く事はもう必要ではないんです。出る答が同じなら、逆に割に合わない感じ。キリが無いわ・・・本当に。リュミエール様のお言葉通り・・・」
「・・・・え?」
 彼は思わず顔を上げた。
「ああ、いえ。私がこの教えを信じるようになったきっかけなんですけど」
「ああ・・・はい」
「その・・・リュミエールさんと同じ名の、水の守護聖様のお言葉でだったんです」
 自分ではなく、彼女にとっての水の守護聖。
「水のサクリアは癒しの力でしょう。でもあの方はおっしゃったそうです・・・自分の力など本当は必要は無いのだと」
 必要・・・ない・・・?
「病気にかかったら、その病気を治す。傷を負ったらその傷口を癒す。でもそれってキリがないでしょう?最初から無ければ良い・・・病気も怪我も、迷いや不安の元になるもの全て、無くしてしまえば良いんだって」
 鼓動が強く早くなる。カップを持った自分の指が震える。
 守護聖になってからずっと感じていた無力感、無常感。茫洋としたまま澱んでいた場所が光の前に暴かれていくような。
「それ・・で・・・?」
「ええ、それでね、女王陛下にはそれができるお力があって。でも民草の信心が足りないから力が宇宙全体に満ちないんですって。だから自分の力が必要とされてしまうんだって、リュミエール様は酷くお悲しみになっているんです。心無い人は多いから、なかなか気持ちをひとまとめにすることはできないことをまるで我が事のようにお責めになって。だから正しき人々のみを聖地に集めてせめても救いたい。今はそのことに尽力なさっているそうです。実現したらどんなにステキでしょうね。誰一人苦しむことがなくなって」
「私は・・・・っ・・・!」
 そんなことは言わない。言っていない・・・!
 喉から出かかる叫び。しかしそれをリュミエールは呑み込んだ。マニエラの為でなく、自分の為に。マニエラのことを思えば、ここで自らが守護聖だと明かし、その言葉が真実発せられたもので無いことを言うべきなのかもしれなかったのに。
 
 水のサクリアは本当ならば必要でない。自分など・・・必要でない。
 反論の余地など無いではないか。それは正解だ。自分は確かにそんなことは言っていない、だがそれは言葉にできなかっただけだ。そう思い知ることが怖くて、奥底に封じ見ない振りをしてきたものだ。そして、そうわかった上で・・・自分は自分を守ろうとしている!
 なんということだろう。
 自分が真実思っていたことは何だ?
 守護聖として、彼女が騙されているのを見過ごせないと飛び出してきた。なのに頭を巡るは己のことばかりだ。
 していることといえば安香水の匂いを消すかのごとく、わざわざ素朴な花を選んで買ったり、それを無邪気に喜ぶ彼女に殊更に安心したり。娼婦だからかとオスカーを非難した自分こそが、一番そのことにこだわっていたのだ。それを証拠に、彼女がそんな仕事をする理由を聞かされて、あっさり納得させられてしまったではないか。
 素直であどけない彼女。そんなことをしていて欲しくないと、身勝手な思いを押しつけるためにここまで足を運んだのだ。彼女が何故にこのような教えに惹かれるのか、そのことをひとつも考えもせずに。彼女の痛みを思いもかけずに。
 
 マニエラの信じている守護聖は偽りの者であるのに、迷える民草に救いの光明を照らす教えを流暢に説いている。なのに真実の守護聖はこうして自らのことばかり考えて本来を立場を忘れているとは。彼女さえ説得できれば満足したろう自分。
・・・そう、彼女さえ。
 
 このように無意識に、醜い感情に支配されることなど初めてのことだった。自分で自分がわからない。困惑と自己嫌悪で吐き気がする。
 これは・・・なんだ?何が理由でこんなことを思う?
 
「あの・・・大丈夫ですか、何かとても顔色が悪くて・・・」
 心配そうにのぞき込むマニエラ。こんな思いに囚われているとは知らず、見つめる大きなグレイの瞳。
 肩に彼をいたわる細い指が触れた瞬間、はじかれたように腰が浮いた。
「もう・・・失礼させていただきますね。長居はご迷惑でしょうから」
 一刻も早く立ち去りたい。そう強く思った。


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