passage         
02


「リュミエール…、リュミちゃんっ!」
 私は慌てて顔を上げた。
「は・はいっ!…ああ、タオルの場所わかりました?」
 髪を拭きながら目の前に立つオリヴィエが、怪訝そうにこちらを見ている。
「ああ、サンキュー。で、それはいいんだけど。キッチン。何か吹いてる」
「あっ…いけない!!」
 私はキッチンに掛けだした。湯が沸いているだけで、とくに酷いことにはなっていなかった。私はオリヴィエの為の簡単な朝食をトレイに揃え、それを持って居間に戻った。
「ありがと〜〜〜!何から何まで悪いねぇ」
「どういたしまして」
 おかげでニューヨークポストは労せず手に入った。私はテーブルの上に広がった新聞を片づけ、彼の為の朝食の場所を空けた。

「こないだまでやってた仕事を辞めたんだ。で、ちょっとバカンスでもと思ってさ、フランスに。ついでにアンタんちにも寄ってみるかと思ったのが運の尽き」
 彼はすっかりいつもの調子を取り戻し、朝食をほおばりながらまくしたてる。
「もうねえ、酷いったらないのよ、あの列車!ルーアンの前くらいでうんともすんとも動かなくなっちゃってさ。ろくなアナウンスもないからすぐ動くのかと思ったら、全っ然!この町についたの、夜中の三時よ?ホテルだって探せやしないわよ、そんな時間…あ、お茶のお代わりもらえる?パンも。そんなワケでろくに食べてもないのよ」
 私は空のカップを持って立ち上がる。
 同情もするし、そんな時間であろうが私の部屋に来るのも一向に構わない。が。
「だからといって、鍵穴にピン差し込んで忍び込む人はいませんよ」
 キッチンにいる私に、彼もまた居間から大声で返す。
「あ〜ら、私のデリカシーだよ?起こしちゃ悪いと思って」
 ただ面倒だっただけに決まっている。
「デリカシーついでに、そのソファに寝ていただきたかったですよ…まったく、心臓に悪い」
「心臓に毛が生えてる男がナニ言ってんのさ。どうせ友達少ないアンタを責めたかないけど、ゲストルームのひとつくらいある部屋借りなさいよ。…そのくせ自分のベッドはキングサイズ…ホント、リュミちゃんってばスケベ」
「…もともと据え付けの家具なんです、あのベッドは!」
 手にして戻ったトレイを、いっそ床に落とそうか。悪い予感を反射的に察知したのか、オリヴィエは私の手からさっさとトレイを奪ってしまった。
「そんなに怒らなくたっていいじゃなーい。あ、美味し。やっぱアンタはコーヒーよりお茶入れるほうが上手だね」
「…お褒めいただき光栄です」
 にこにこと無邪気な笑顔に、怒る気も失せる。
 彼がテーブルの脇の新聞に目を留める。
「そういえば。そんなに熱中して読むようなこと書いてあった?この新聞」
「ああ、それはオスカーが…」
「オスカー?あっはは、あいつ、とうとう新聞種?」
「違いますよ」
 オリヴィエは、新聞を買っても隅々まで読まない。未だにそれは変わっていないようだ。
「載っているのは私です。ほんの一行ですがね」
 へえ?と、オリヴィエは興味深げに新聞を手にとった。
「これ?」
「ええ」
 彼はひとしきりそれを読む。しばしの沈黙。
「…で…これのどこ?」
 私は笑った。
「そう思うでしょう?……そう思うほうが普通だ」
 なぜ、この記事を読んだだけで、オスカーには私だと“わかった”のだろう?
 しかし私の脳裏には、そのことよりもあの村での日々がまざまざと蘇っていた。



「なんだ、楽しそうな声が聞こえると思ったら…君たちはただ野菜の皮を剥いていただけかい」
 裏庭にいた私とマリーに、戸口から現れたフランソワは驚いたように言った。
「すいません、司祭様!」
 マリーは慌てて立ち上がり、野菜の入った桶を持ち上げ彼と入れ替わりに教会に駆け込んだ。鳥の群がいっせいに空を行く。その羽音がマリーの足音に重なった。
「……別に責めたんじゃないのになぁ」
 振り返り一人ごちる彼に、私は笑った。
「ふふ、彼女は真面目だから。大丈夫ですよ、責められたとも思ってないでしょう」
 ならいいけど、と彼は言って、さっきまでマリーが座っていた場所に腰を下ろした。
「まったく。出会ってまもない君のほうが、彼女をよく知ってる。あの子はひどく内気で、僕は少々心配してたんだけど。それはどうやら相手が僕だったからってことなのかな」
 確かにある意味ではそれは一理あるのだが、私は敢えて言わずにおいた。
「そんなことは…ただ話しやすいだけでしょう」
「そこだよリュミエール、問題は!」
 フランソワは真剣な面もちで私を見る。
「僕はそんなに怖いかねえ?そりゃ君は若いしハンサムだ、張り合う気はないけど…僕だって髭面の大男とか言うんじゃないのにさぁ」
 子供のようにすねる彼に、私は思わず吹き出した。確かに、あの年頃の少女については、何もわかっていない。
「ふふ、あなたは充分若くてハンサムですよ。アンナさんだってこないだ私にそう言ってました」
 その上、驚くほどの教養人で、人並み以上に知的欲求の旺盛な人物だった。何カ国語にも精通し、古今東西の膨大な量の書物を読み、雑草の名から歴史、数学にまで知識は及んだ。関心のない分野のことは何一つ知らなかったが、ひとたび自分のテリトリーとなると学者のように見識がある…独学でものを学んだタイプにはよくある傾向だ。
 初めは、このような村の一司祭をしているのを不思議に思った。が、今はわかる。カトリック教会のような保守組織の中では、まず従順であることが好まれる。こういった才長けた人物は評価される前に排斥されるものだ。
「アンナおばさんが言ってくれてもねぇ…君、笑い事じゃないよ?召使いとはいえ、ひとつ屋根の下に暮らす女の子に怯えられる身にもなってくれ」
「怯えているんじゃありませんよ。ただちょっと恥ずかしがっているだけです」
「恥ずかしがる…?なんで」
「さあ…自分で直接聞いてみるのも手かもしれません」
 なお笑う私に、フランソワは軽くため息をついた。
「君はいつもそう言う。…あ、それで思い出した」
 彼は顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「教会の修復の件だけど。許可が下りたよ。さっきカルカソンヌから手紙が届いたんだ」
 カルカソンヌは、この一体の小さな教区を管轄している大きな教会のある街だ。何をするにもまずそこへ、それがカトリック教会の強固たるヒエラルキーだった。
「それは良かったですね!おめでとうございます」
「この教会の窮状をせつせつと訴えたからねえ。すべて建て直しとはいかないまでも、これでいつ倒れるかって心配はしなくても済みそうだ」
 彼は教会の塔を見上げた。私も習って同じ場所を眺める。
「この教会は本来由緒正しいものであるのでしょう?その辺りのことをきっとわかってくださったんですよ」
「君に言われて、ダメでもともとと頼んでみて正解だったよ。こんなへんぴな場所じゃ、こっちから言い出さないと伝わらないって意見は確かに正しかったな」
 彼の声はいつになく楽しげで、私も嬉しくなった。
 このような村にあって、おそらくこのままこの村で生涯を終える。
 もちろん、彼は愚痴をこぼしたことなど一度もない、神父としての仕事も問題なくこなしているし、村人達との関係も良好だ。彼なりに深くこの村を愛している…ただ、ほんの少し退屈しているのも事実だろう。私にはそう見えた。
 私のような旅人を引き留めて、側に置いていることからもわかる。彼にはそれまで、ごく普通に意見を求めたりできるような相手のひとりもいなかったのだ。
 だが、それは私も似たようなもの。旅を続けて数多の人に出会って。それでも過去も素性も問わず今の私自身を求めてくれる友人には、なかなか出会えない。
「少しはお役に立てたのならいいのですが。…ただでさえ貧に窮する教会に、ごやっかいになっている身としては」
「はは、修復が終わってからなら下宿賃を取ることにするよ。雨漏りのする部屋では文句を言われないだけましだから」
 私達は互いに笑った。
「さて、これから忙しくなるよ。予算の額はそう多くない、できるだけ安く上げないと!」
 彼のようなタイプは、とりあえずでも何か動いていたほうがいい。新しい扉は、立ち止まっている者には開かれない。
 私は彼が好きだった、彼の力になりたいと心から思う。
「私もお手伝いできることがあれば何でもやりますよ。言ってください」
「ああ、遠慮なく頼むことにするよ!」



「でさあ、このバチカンの陰謀なんたら言うのは?」
「…さあ…?私にはまったく心当たりの無いことです」
 下働きとして住み込んでいた青年が、教会の使いでパリに行くと言ったきり姿を消して。私の記述に関しては事実まったくその通り、それ以上でも以下でもないと記者を褒めてあげたいくらいだ。
「下働きごとき秘密を知る由もないし、消えた後のことは関わりようもない」
 誰に何を言われて変わるものでもない。私の知る彼らは、今も私の中に在る。
 要するにこの記事は、私にとってはただ不粋なだけの根拠の乏しい噂話だ。懐かしい友人達がもうこの地上にいないことを教えてくれたことには感謝もするけれど…礼を言おうにも卑怯なことに記名がない。
 私は新聞をぞんざいに折り畳んだ。オリヴィエはつまらなそうに言った。
「なーんだ、ただのガセネタか」
「さあ、どうなんでしょうね」
「…そうやって意味深に笑ったりすると、痛くもない腹探られたりするよ」
 からかうようなオリヴィエの言葉に、私は思わず吹き出した。
「探られる?一体、誰に?」
 どこの誰が“こんなこと”を信じるというのだ。
「まったくね。…消息が知りたいんなら、死んでるほうがまだお墓が残るぶんマシかも」
「でしょう?」
 この記者がどれだけ謎の青年とやらを追っても無駄でしかない。ニューヨークポストが世界中で売られても、私に気がつくのはオスカーぐらいなものだ。
「それにしても、本当に。どうしてわかったのでしょうね」
「オスカー?…いつもの動物的勘じゃないの。職業柄とか…あ、記者はもうやらん、とかっていつか言ってたけど、もしかしてコレ、あいつの書いた記事だったりして!」
「まさか。それに彼だったら見出しより大きな活字で記名がありますよ」
「『すべて私のやったこと』とかって、ローマ法王のコメントも入ってるね」

 

「さあてと、そろそろ行くかな」
 オリヴィエが立ち上がった。私はそのときになるまで、オリヴィエがどこへ行くのか聞いていなかったことに気付いた。
 駅まで送るという私をオリヴィエは断ったので、私の見送りはアパルトマンの門までとなった。部屋は三階だ、せめてもトランクは私が持とう。彼がいなかったら、あの記事の読後の印象は、もっと沈んだものになったかもしれない。 
 軋む階段を下りながら、特に決めてはないんだけど、とまず言い置いて、オリヴィエはこの後のことを嬉しそうに語った。
「ここからとりあえずブルターニュ…大西洋のほうに出てさ、ずーっと海岸沿いを行こうと思って。ボルドーからラングドックを横切りつつ、古いワインを飲み歩くの。そして最後は地中海!ニースでゆっくり旅の疲れを癒すわけ。三つの海を巡る旅だよ、…どう?いい感じでしょ?」
「それは豪勢だ。今は季節も良いですしね」
 レンヌ・ル・シャトーはラングドックのちょうど中央あたりだ。鮮やかに脳裏に蘇る緑、強い初夏の陽光。いつまでも落ちぬ夕陽、広大なクローバー畑。あの方面には旅はしばらくしていないが、今もきっと何一つ変わらず、のどかな田園風景を輝かせているだろう。
「時代が変わっても貴族のような生活で羨ましい限り」
「アンタだって似たようなもんでしょうが。…今はあんまり作ってないの?」
 オリヴィエはバイオリンを弾く真似をしてみせた。
「今も昔も」
 看板を掲げて、人からオーダーを受けて作ったことは一度もない。
「…あれは…出会いのものなので」
「ああ、そうだね。アンタにとっては手紙を書くようなもんだ」
 そう言う彼に私は笑みだけ返した。

「では良い旅を、オリヴィエ」
「あはは、面倒な陰謀とかに巻き込まれないよーにせいぜい祈ってて!」
 私は彼の後ろ姿が見えなくなるのを見計らって、入り口の郵便受けから郵便物を引き取ってから部屋へ戻った。


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