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03


 彼が去った部屋はやけに白茶けた西日が満ちて、急にがらんとした印象に思えた。いつもの日常に戻っただけなのに、一体何が差し引かれてしまったのだろう。
 私はソファに座り、今し方取ってきた手紙をテーブルに置いた。どれもダイレクトメールばかりだ。前の住人の宛名のものも混じっている。何度も言っているのに、郵便屋のモリスは本当にそそっかしい。
 そうだ、今夜はあの店に行こう。間違いの郵便物を渡すついでにホームズ談義でも彼とするのがいい。彼のホームズの知識は百科事典並で、台詞の一節を言えばタイトルはもちろん、初出年や所収単行本の発行年まですぐにはじき出す。あまりに淀みないので、私はついつい面白がって彼に問題を出した。そんな会話を端で聞いているおかげで、あの店の常連は皆今ではいっぱしのシャーロッキアンだ。

───リュミエール、ホームズは謎を「解く」んじゃないんだ。言うなれば彼は磁石なんだよ、真実は砂鉄さ。


 私に最初にホームズを教えてくれたのは、フランソワだった。まだ最初の単行本さえ出ていないあの時代。ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』が載った雑誌を、彼は私に半ば強引に貸しつけた。
 以後…彼と別れた後も、私はホームズの新作が発表されるたび追って読むようになった。自ずと詳しくもなる。が、小説のファンだったというより、その名探偵にフランソワの面影を重ねていたというほうが近い。



「とにかく面白いんだ、君も読んでくれれば絶対にそう思うって!」
 彼は意気揚々とその魅力を語気に込めた。無理はない、この村には英語はもちろん、母国語の本でさえ読む者はいないのだ。彼がこの小説について語り合いたいと思えば、私に薦めるより他に手はない。
「ですが、フランソワ。推理小説は主題が犯罪だから仕方ありませんが…どうもこういったものには不粋さのほうを強く感じてしまって。現実なら諦めもつくけれど、それを小説でまで読みたいとは、あまり」
 私は手元の『ビートンのクリスマス年鑑』と題された雑誌をぱらぱらとめくった。発行はロンドンで1887年冬、三年余り前だ。ただの古雑誌だが、この村においては手に入れるのも大変なことだろう。
「ああ、それは僕も同感だけどね」
 フランソワはそう言って、来ていた服の襟の掛け金を外した。それは神父の自分と、個人の自分を分ける時の彼の癖だ。
「謎に対して真実は、得てして想像するほど面白おかしいものじゃないし、知ってどうなるものでもなかったりする」
「でも、これは違う、と?」
「そう。どこが画期的って…シャーロック・ホームズは“嫌なヤツ”なんだよ」
 フランソワは悪戯っぽく笑った。
「鼻持ちならない自信家で、自分にわからないことなんかないって態度なんだ、しかもそれを隠そうともしない。彼は罪人を懲らしめたいんじゃない、犯罪の撲滅を願っているんでもない。知りたいだけなんだ、自分の目の前にある謎が、自分の持ってる能力で解けるかどうかを」
 知りたいだけ。自分の能力がどれだけのものか。
「…まるで幼い子供のようですね」
 それではまるでフランソワ、あなたのようだ。本当はそう言いたかった。
 手当たり次第の書物をむさぼり、特に必要とも思えない外国語を次々にマスターし。
 自分を夢中にさせる、心躍らせる何かが欲しい。
 ほんの少しでも知ってしまえば忘れられず、一瞬でかまわないと思いつつ取り憑かれたようにまた同じ、いや、それ以上を求めてしまう。果てのない衝動。
 自分では気付いていないかもしれないが、彼はそうしたタイプだ。
「彼はとっても純粋なのさ、清々しいくらいに。僕なんかはそういう人物のほうが共感できるね、変に正義を振り回されるよりか」
 確かにそれは同感だ。
「彼の手にかかると、謎が面白いように解けていく…いや『解ける』という言い方は適切じゃないな。リュミエール、君は海とか川辺で磁石で遊んだことがあるかい?子供の頃に」
 いいえ、と私は言った。
「そう?僕なんかよくやったけど。砂の中には鉄の粒子が混じっていてさ、磁石を差し入れるとくっつくんだ。あれと近いな、ホームズは磁石さ。彼がひとたび天才的な頭脳を働かせると、真実のほうが引き寄せられていく。為す術もなくね」
 世界は確かに茫漠とした砂地のようなものだ。金も混じれば尖った石もある。
「彼はけっして善人じゃない、だが魅力的だ…それまで探偵小説なんか別に好きじゃあなかった。嫌いってわけでもないけど…そうだねぇ、君の言うとおり無粋でもあるし…少し単純に見える。正しきが悪しきを裁くという大義の図式がさ。物事は、そうそうわかりやすく善と悪に分かれたりはしてないしねえ…おや、何で笑ってるんだい、リュミエール」
「あなたのその口振り。神父なのに、そんなことを言ってると知れたら間違いなく破門でしょう?…呑気にもほどがある」
「ははは、そりゃそうだ!…でもまあ、誰もこんな田舎神父の言動なんかに興味は持たないさ。それとも君はわざわざこんなことをバチカンに言いつけにいくほど物好きかい?」
「恐れおおい…私など門番にさえとりあってももらえないですよ」
「無駄足を踏ませちゃ悪い、帰りにロンドンへ寄って続きの物語をぜひ手に入れてきてくれよ!」
「それより前に夕食です。ほら、マリーが困っていますよ」
 ちょうど夕食ができたことを知らせに来たマリーが、言い出すタイミングを逸してドアのところに立ちつくしていた。
「いえ…あの…すいません、お話中…今のお話は誰にも言いませんからっ」
 私達は顔を見合わせて、それから大声で笑った。フランソワは言った。
「あはは、頼むよマリー。君は信頼のおける召使いだ」
 笑い声が、ひび割れた壁や踏み抜きそうなほど薄い床に響いた。



 開け放した窓から強い風が入り、カーテンが大きく舞った。それに煽られて、テーブルに置いた手紙の束が足下の床に落ちて散らばった。
 拾い集めながら、一通の封筒に手が止まった。
どこにも特徴のない白い封筒、その素っ気なさが逆に強い主張をしているかのようだった。
 私はその場で封を切ってみた。
 中には古びてすでに変色した絵葉書が一枚、他には何もない。
 …カードを見たとたん、私の心臓は大きく鼓動を打った。“親愛なるマリー…”。それは間違いなく、私の字だった。
 まさか…そんなわけが。いや、なんでこれが今ここに?なぜ「今の私」の元に届く?
 慌ててもう一度封筒を見る。発信者の名は無い、エアメイル。消印はにじんではっきりせず、私の宛名すらところどころ消えかかっている。細く美しい綴り文字、筆圧からホームズ風に推理すれば、おそらく小柄な男か、女性の書いた文字だ。

───理由は…私にもわかりません、とにかくそう伝えろと言われたんです。パリに行ったら…この村にいたことは隠して欲しい、念のため偽名も使ったほうがいいだろう、って。司祭様の名も、この村のことも決して他言してはいけないって。…それで…司祭様のご用事が済んでも、この村には戻ってこないでくれ、と。そうおっしゃいました…ええ、間違いじゃありません、一言一句。


 まるでマリーが私に送り返してきたかのように思えた。
 馬鹿げている。私は、彼女がどんな字を書くのか、字が書けたのかどうかさえ知らない。そう、私は本当に何も知らないのだ。
 私は茫漠とした砂のような、とりとめのない想像を振り払うように頭を振った。

 

 新聞記者であろうが、幽霊が墓の下から送ってきたものでも構わなかった。これがここにあるという事実に変わりはない。
 私はいつだって、特に誰かに居所を知らせるようなことはしない。だが、オスカーは電話をかけてくる、オリヴィエは夜中であろうが私の部屋にたどり着く。居所など、本気で調べようと思えばいくらでも方法はあるのだ…どこかに必ずいるとわかっていれば。
 誰が何のために?今日一日。こうまで執拗にこの一件を私に思い出させようとする、その理由。

 顔を上げて窓の外を見る。時が止まったように相変わらずの西日。潮の音に重なって、遠く微かにサン・カトリーヌのオルガンが聞こえる。
 私は立ち上がり、クローゼットのある寝室へと行った。
 この季節は日没が遅い、夜の闇が降りてくるのには未だ間がある。
 他のどこでもない。私の真実もまた砂鉄なら、引き寄せる磁石はあの村にある。
 なぜか笑いがこみ上げてきて仕方がない。…面白い。
 陰謀の謎など興味はない、もうマリーもフランソワもいない、あの頃の私ももう、いない。想い出の名残が消えた跡に引き寄せられているのは、今の私だった。
“運命という奴は本当にわけが分からない。これから先何か良いことがない分には、人生なんて悪い冗談”…。

 ああ、その台詞をモリスに問うのはまたの機会に譲ろう。彼ほどの早さとはいかないまでも、私だって考えれば思い出すということもある。そうした思索にふけるに、列車の座席は最適の場所だ。
 まずはパリ、そこから夜行に乗れば明日の朝にはトゥルーズまで行ける。昼過ぎにはあの村へ行けるだろう。


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