聞こえるのは風の音だけだった。世界のすべてが、限りなく無に近づいていく。この瞬間が好きだ。そこにあるはずのすべてのものが身体の両脇をすり抜けちぎれて後ろに散って、俺は絹を切り裂く刃のごとく、世界を二つに分けていく。もっと早く、もっと早く。何も考えず鞭を入れる。愛馬はそれに答え小さくいななく。どこを目指しているんでもない。ただ思うままに俺は風になる。

 炎の守護聖オスカーは、手綱を引くと、愛馬の背からひらり降り立った。
「今日は随分気分が良かったぞ、アグネシカ。ご苦労さん」
 目の前の湧き水を、彼の愛馬はむさぼるように飲んでいた。その様子を見守りながら、オスカーも額にかいた汗を手で拭った。大きく深呼吸する。と、背後から声がした。
「・・・・まったく。そなたと遠乗りをしても姿を見るのは最初と最後だけだな」
「ははは、早駆けこそが乗馬の醍醐味ですよ、ジュリアス様」
 振り返るとそこには光の守護聖ジュリアスがいた。オスカーとジュリアスは、こうして休日をともに過ごすことが多い。遠乗りも、共通の趣味だった。
 ジュリアスもまた馬の背から降り立ち、着衣の乱れを整えた。
「せっかちな奴だ。たまにはゆったりと景色を見やる余裕が欲しいものだな」
「そういうジュリアス様こそ。それほど到着までに時間の差はありませんでしたよ」
 オスカーは高笑いをした。
「それに景色はひとしきり駆けた後で堪能するのが好きです、俺は。その方がずっと気分がいい。
・・・・・おや?あれは・・・・」

 少し離れたところで人の声がする。アンジェリークとマルセル。そしてゼフェルだ。こちらのことは気付いていないようだ。
「女王候補と・・・緑と鋼の守護聖か。ああして若い者達は休日にも交流を深めているのだな。まあ、悪いことではないが・・・すべき事を忘れているのでなければ」
 ジュリアスが、その美しい眉根を少し寄せた。彼は守護聖の首座であるという責任を片時も忘れることはない。常に職務第一で、それは休日でも頭を離れないようだ。そんな彼を敬遠する向きも多いが、オスカーはそうは思っていない。彼の責任感の強さには敬服すら抱く。
「・・・たまにはゆったりと景色を見やる余裕が必要なのは、やはりジュリアス様の方ではないですか?休日くらい職務のことは忘れないとお身体が持ちませんよ!」
 オスカーは笑って言った。そして視線を3人に戻す。
 オスカーはアンジェリークの手にある物に目を奪われた。一瞬、身がこわばるのを感じた。
「あれは・・・・・・・あのオルゴールは」



 オスカーはジュリアスとの遠乗りを早々に切り上げ、私邸に戻っていた。いつもなら、引き続きジュリアスとチェスの一勝負でもするところであるが、今日はそのような気分になれなかった。そんなオスカーの様子を察してかジュリアスも何も言わなかった。
 服を着替え、椅子に深く身を沈める。先程聞こえてきた、ゼフェルの台詞が頭に蘇る。
「ああ、ついでに直しといてやったぜ」
・・・確かにそう言っていた。聞き間違いではない。あのオルゴールを?しかもゼフェルが??奴はあのオルゴールがどのような物なのか知っているのか?
 あのオルゴールは、ゼフェルの先任、前鋼の守護聖エリオットの作ったものだ。そして今は女王補佐官ディアのものだ。それを何故、アンジェリークが?

 推測すれば大方の事情は読める。あの頑張り屋のお嬢ちゃんが壊れたオルゴールを見かねて、ゼフェルに修理を頼んだのだろう。あのオルゴールに纏わる哀しい出来事を知らずに。・・・ゼフェルもきっと何も知らずにその頼みをきいてやったに違いない。そんなところだろう。
「でも・・・ディアは」
 ディアは何を思ってアンジェリークにあのオルゴールを委ねたのだろう。その後ゼフェルの手に渡ることもわかっていたろうに。どのようなつもりで今になって。

「あのオルゴールが直ったのか・・・・」
 ディアは今頃あのオルゴールの音色を聴いているのか?どんな気持ちで?
 オスカーはおもむろに立ち上がり、身支度を整え始めた。いてもたってもいられない。考えるより先に身体が動いていた。
 私室のドアを荒々しく開ける。そこには側仕えの者がひとり待機していた。
「オスカー様、どちらへお出かけでございましょう」
「・・・・・・ディアの私邸へ」
「かしこまりました。ただ今、馬を」



「オ・・・スカー・・・。これは・・・どうしたのですか?私のところへなど、珍しい・・」
 ディアの私邸に一人訪れたオスカーに、ディアはそれだけ言った。会話をするのもやっとだというように。明らかに心ここにあらずといった、まるで木偶の人形のような様子の彼女に、オスカーは目を見張った。
「どうしたんだ、何があったんだ、ディア」
「何も・・・・どうということもありません・・・わ」
「そんな訳がないだろう!見ればわかる。具合が悪いのか??」
 オスカーは思いあまってディアの両の肩をつかんだ。
 ディアはぼんやりと力無い眼差しをオスカーに向ける。目の前の炎の守護聖が、本気で自分の身を案じてくれているのだけはわかる。しかし言葉は出ない。みるみる彼女の美しい瞳に涙が溢れだした。
「オスカー・・・・私は・・・・ああ・・」
「ディア!何があったんだ!オルゴールが原因なのか?あの、エリオット様の!」
 オスカーのその言葉に、ディアは目を大きく見開いた。
「あなた、あのオルゴールがエリオットのものだとなぜ知っているのですか?それを知っているのはルヴァくらいしか!そんな、では・・・!」
 取り乱すディア。かなり衝撃的な事だったらしい。彼女の言葉は絶叫に近かった。
「落ちつけ!落ちつくんだ、ディア!!」
 ディアの肩をつかんだままの手に力がこもる。オスカーもかなりの大声を出していた。
「落ちついてくれ、頼む!」
「・・・・・・オスカー・・・・・」
 炎の守護聖の必死の懇願に、ディアは我に返った。その顔はまだ涙に泣きぬれていたが、少し正気の色が戻っていた。
 肩におかれた彼の手に、ディアはそっと手を重ね、言った。
「・・・すみません、取り乱して。私としたことが」
「いいんだ、ディア。俺も大声を出してすまなかった。・・・何があったんだ、俺に言えるか?」
 ディアはゆっくりとオスカーから視線を外しうつむいた。
「ご心配ありがとうございます、オスカー」
 そこまで言って、ディアはテーブルの上に置かれた美しいオルゴールを見やった。
「このオルゴール・・・ゼフェルが直してくださったのです」
「ああ、俺も偶然その話を聞いて、ここへ来たんだ。何か気になって」
「そうでしたか・・・。オスカー・・・エリオットの事、守護聖交替の時のことを覚えていますか?」
 ディアは唐突に話題を振った。オスカーは戸惑いながらも答えた。
「ああ、勿論だ。忘れられる筈もない」
 オスカーは思いを馳せた。あれは一年ほども前になるか。たったの一年とはいえ、この聖地ではかなりの長さをもって感じられる。特にあの出来事は以後誰もが口を閉ざし、語りたがらない。なおさら遠い昔のことに思えた。
 ディアもまた、悲しげな面もちでその時の事を蘇らせていた。


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