SUGAR FIX

「…教えてはいただけないことなのですか?この私にも?」
「何を教えて欲しいんだ、レディ」
 内容はわかっている。が、俺は敢えていったん問いかける。
「ごまかさないで。…遠くに行ってしまわれると聞きました。いつのお帰りもわからないと…」
「そのことか」
 口調はごく普通に、特に驚いたふうでも、はたまた変に冷静すぎてもいけない。あくまで自然に、目を閉じ、小さくため息をひとつ。
「…確かに言うとおりだ」
「どうして?オスカー様は代々続いた名誉あるお家の長子、そんな方が家を出られるなど!」
「だからこそ、だ。今回のことは父の、この家の意向だ。要するに見聞を広め文武に精進し、より跡取りとしての成長と自覚を…」
「もう、お会いできないんですの?」
 人の話を聞く余裕など、彼女にはない。瞳からはとうとう涙が溢れ流れた。
「私…私…これからどうすればいいんですか、オスカー様がいない毎日なんて…考えられない」
「ああ、泣かないでくれレディ。君をそんなふうに泣かせる男は、たとえ自分でも許せない」
「オスカー様…」
「…すまない…だが」
 俺はハンカチを取り出し、彼女にそっと手渡す。それからおもむろに座っていたソファから立ち上がり窓辺に歩みよる。彼女に背を向け、空を見上げる。そうして、呟くように、しかしはっきりと。
「男には、課せられた責任と果たすべき使命があるんだ」
 再びソファに戻って、彼女の手を取る。
「突然のことだ、ショックを受けるのも無理はない。…だが俺は軍人の家に生まれた、主には絶対服従としつけられてきた。俺ももう17、いつまでも幼い子どものように甘えた我が儘を言っているわけにはいかない。……レディ、俺の苦しい胸の内、わかってくれ」
「オスカー様!」
 互いに握る手指に力がこもる。ここでノック。
「お話のところ、失礼いたします。至急の用です」
 俺の側仕えのパトリックだ。俺が「入れ」と一言告げると、ドアが開いて、生真面目そうな少年が頭を下げる。
「オスカー様、ご主人様がお呼びでございます。此度の事でお話が」
「そうか」
 俺は彼女に向いて言う。
「レディ、申し訳ないが…」
 彼女は唐突に現実に引き戻され顔を赤らめつつ、慌てたように頷いて「忙しいところ、ごめんなさい」とわびた。
「あの、これ…オスカー様との想い出に…いただいてもよいでしょうか」
 彼女の手には先ほどのハンカチが綺麗に折り畳まれている。
「あ、ああ。そんなもので良いのならいくらでも」
「大事にしますわ。…いつお発ちになりますの」
「まだ決まっていないんだ」
「そうですか、でもきっと盛大なる壮行パーティがございますわね。私、オスカー様のために誰よりも美しく装いますわ。だからオスカー様、ラストダンスは私と踊ってくださいませね」
「ああ、そうしよう」
 気が済んだのか納得したのか、やけに晴れ晴れとした笑顔で彼女は去った。

 遠く馬車が去っていくのを、オスカーは窓ごしに見送ってからソファに戻る。ふと見上げるとパトリックがこちらを見ている。
「…なんだ。何か言いたげだな、パット」
「いいえ別に」
 代々この家に仕える家に生まれ、オスカーと兄弟のようにして育った少年は、「ただ」と言葉を継いだ。
「いったい、その壮行パーティとやらのラストダンスはラインダンスなのか、それとも相手を変えながら踊るフォークダンスなのかと考えていただけです。今日は今の方で7人目。私の記憶が確かならば、お相手のお約束をなさったのは今までで9人目」
「……嫌味なヤツだな……。ああ言われて他に言いようがあるか?いいじゃないか、どうせそんなパーティ無いんだし!」
 オスカーがここを去る日は決まっていない。明日かもしれないし、一月先かもしれなかった。とにかく、次にはもう迎えの使者が来るという、そんな状況でパーティなどしている場合ではない。今までの話は大嘘だった。この家を離れ遠くにいくのは事実だが、その場所はあまりに遙かな場所で、そうおいそれと口にできない場所だ。
「そうでございますね」
 パトリックは少し憮然としてそう言ってから、オスカーの脇にあるクッションの形を整え置き直した。そのわざとらしさに、オスカーの口がいささかとがる。
「…とかなんとか言って、お前だってノリノリで芝居してるじゃないか」
 もちろん、主人が呼んでいる、などというのも来客を引き取らせる口実だ。
「無芸な私でも、さすがにこれだけ繰り返し同じセリフを言わされれば慣れます。しかしそれでもオスカー様のようにはとてもとても」
「俺だって無責任なことは言いたくないが、状況的にそれしかないんだ、仕方ないじゃないか!」
「無責任な発言に気を付けている方は、元よりこんな苦労はなさいませんよ」
 遠慮のない言い方だが、彼にはそれが許されていた。
「誤解だ!俺は断じて無責任な事などしていない!…今の彼女なんざ一回ふたりで遠乗り行っただけだぞ!?それをあんな風に一方的に言われ…」
「それでも」
 パットはオスカーを真っ直ぐに見据え、きっぱりと言った。
「皆様、オスカー様をお大切に想う気持ちがあってこそです」 
「…………そうだな、すまん」
 パトリックはにっこりほほえんだ。
「私に謝る必要はありません。今回のことはいろいろ事情もあります。…最後のお役目と張り切らせていただきますよ」
 そう言って彼は頭を下げ、部屋を出ていった。オスカーは部屋にひとりきりなり、急に静かな空間が戻る。
「…最後、か」
 生まれてから17年間育ったこの部屋。オスカーはソファの背にのけぞるように身体をあずけ、あらためて隅々を見渡した。それから目を閉じる。闇に自分の胸の鼓動のみ。さっきの自分の言葉が脳裏に浮かぶ。課せられた責任と果たすべき使命。
 そんなものは誰しもが持って生まれて、かつ意識するべき事だ。何も声高に言うほどのものではない。
 “聖なる力”。そんなものが実際、本当に、俺にあるのかは知らない。ただそう言われただけだ。ただ、俺は俺に与えられたこの運命を、この上ない栄誉に思う。そうだ、他の誰でもない、この俺であるから、意味がある、必要とされる。ならば応えよう、そして俺には応えられるだけの力がある。地位も富も愛も健康な肉体も、人が求めるたいていの幸福をすでに俺は持っている。恵まれた境遇なんだろうが、そこを云々されても困るし、他の目を気にして敢えて控えめに生きるつもりもない。運命は、はなから平等ではないのだ。いや、幸運を欲しいままにするのも才能なのかもしれない、なら俺には運命の女神をも魅了する天賦の才があったということだ。
 しかしレディ、今度のことにはさすがの俺も驚いたぜ?
 再び目を開ける。窓から差し込む午後の光が、いつになく優しく穏やかに壁を天井を、そして部屋の様々なものを照らしている。確かにどれも愛着はあるし想い出深い。しかし離れがたいと強く思うでもなかった。
 すべてに別れがある。物は壊れる、人は死ぬ。そんな当然のことにいちいちセンチメンタルになっていられない。
 そう、俺はそういう立場の者に、なるんだ。

 それを思うだけで、熱を湛えて鈍く輝く溶けた鉄のような、興奮に似た何かが底のほうからわき上がってくるのをオスカーは感じた。初めて出会う感情であった。



「どういうことだっっっ!パット!!」
「オスカー様…お早いですねえ、お珍しい」
 パットは馬のブラッシングの手をとめ、ひどくゆっくりと顔を上げた。
「厩舎の戸が壊れてしまったじゃないですか。…まったく乱暴なんだから」
「そんなもの後で直させる!これはいったいなんだ!」
「中をごらんになったのでしょう?……暇を願う書面です」
「だからっ、なんでこんなものを書いた?しかも俺にひとことも相談なく」
「私の雇い主は旦那様ですから。旦那様にまず申し上げるのが筋かと」
「…………………」
 少年の言うとおりだった。オスカーは拳を強く握り、今できうる限りの平静を取り戻してから口を開いた。
「…だから、どうしてなんだ?なぜお前がやめる?この家を出る必要がある?」
 苛立って床板を踏みならすように歩き回るオスカーに、パットは微笑んだ。
「別段さほど不思議では。オスカー様がこの家にいる間は、もちろんお仕えさせていただくつもりです。だって私はオスカー様付き、なんですから!」
「父か、誰かから何か言われたのか?」
「まさか。すべて自分で決めたことです」
「お前の父親はなんて言ってるんだ、知ってるのか?」
「もちろん。私が決めたことならと、賛成してくれましたよ」
「何故だ。お前は跡継ぎだろう?」
 この先、彼の父が役目を終えたあと、この家のいっさいを取り仕切るのは彼のはずだった。そうやって、パットの家は代々オスカーの家と等しく続いてきたのだ。
「跡継ぎ?」
 パットはオスカーの目を見て、きっぱり言った。
「それならオスカー様も、です」
「そ、それはそうだが…!」
「長子が必ず跡目を継がねばならないということはありません。私には幸い弟がいますし」
「まだ7才のな」
 オスカーが吐き捨てる。パットはなべて冷静だ。
「…姉が婿をとってもいい。いくらでも方法はありますよ」
「俺のせいで。俺がいなくなるから、お前も出るのか?この家を?」
「誰かによってということはありません。もちろんきっかけではありますが」
 オスカーは再び激昂した。
「前から出たかったってことか?この家が、いやこの俺が!気に入らなかっ…」
「だからっっ!そうじゃありませんってばっっっっ!!!!」
 オスカーの大声を凌ぐ大音量に、オスカーは驚いて黙った。一瞬の沈黙のあと、さっきの大声など嘘のように、パットはまた穏やかに言った。
「オスカー様。私も15。生意気にもいろいろ世間を知りたいとも思っているんです」
「……ふん、ほんとーに生意気だ」
 子どものように呟いてから、オスカーはおもむろに壁にかけてある鞍に手をかけた。
「ここのところご無沙汰だ。行くぞ」
「今すぐ、ですか?…では水を飲ませてから…」
「いい!そんなものは早駆けの後、泉で飲ませればいい」
 オスカーはパットの顔も見ずに、自分の馬に自分の鞍をのせ、同じく壁にかけてあった鞭と手綱を手にとった。
「外で待ってる。早くしろ」


 屋敷から少し離れた森を抜けたところにある湖のほとりで、二頭の馬が一心に水を飲んでいる。早駆けのコースは幾通りかあるのだが、終着点はすべてこの場所。それくらいこの、森の奥にぽっかりと開けたところにある湖のほとりは、オスカーの、むろんパットにとっても気に入りの場所であった。
 パットは、馬の背越しに広がる水面を眺めるオスカーを、横目で見た。朝の光に照り映えて光る景色のなか、時折風になびいて揺れる緋色の髪、整った横顔。誰よりいつも堂々とまっすぐ前を見つめる瞳。生まれてこの方いつも側にあって当たり前だった、しかしこの先きっともうけして、出会うことのない強く迷いない光を湛える碧の瞳。
「ん?どうした、その場所は眩しいか?なら場所を交換…」
「いえ、大丈夫です。このままでいいです」
 腰を浮かすオスカーを、パットは慌てて制した。それから視線を先ほどオスカーが眺めていた、しかしとりたてて何もない景色に視線をやってパットは言った。
「早駆け、とうとうオスカー様には一度も勝てませんでした。悔しいです」
「お前は強気が足りないんだよ。ただ早く走れるってだけじゃ駄目だ、強引さも必要さ」
「あはは、それが秘訣なら一生オスカー様にはかないませんよ!他の誰に勝ててもね。なんてったって強さを司る…」
 言いかけて、彼はそのまま口をつぐんだ。
 オスカーはちらと横目でパットを見てから視線を遠く水面に戻した。小鳥の群が、いっせいに空に向かって飛んでいくのが見えた。
「なあ。今からでも頼んでみようか。お前ひとり使用人として連れてくくらい聖地だって…」
「いいえ」
 パットはオスカーの顔も見ずに断った。
「たとえそれが問題無くとも、それは辞退させていただきます。お心遣い嬉しいですが」
「…そう言うと思った」
 オスカーはごろりと草地に寝そべった。
「名案だと思ったんだがな」
「そんなこと、たった今思いついたくせに」
「そうだな。…考えてなかったな」
 寝そべったまま空だけを見て、オスカーは続ける。
「自分がどこに行こうがどんな運命にこの先出会おうが、なにひとつ不安は無い。ここを後にすることにも不安はない、いや…、無かった、今日まで。俺が去って、俺の父、そしてお前の父がいなくなっても。お前やそのほかの者たちが、いずれ家長となる弟を助け、きっと変わりなくやってくれるだろう…そう思ったから安心して」
「きっとそうでしょう、何ひとつ変わりなくお家は安泰ですよ」
「変わるじゃないか、お前がいなくなる」
「私1人いなくなることなど…影響を及ぼしはしませんよ。大丈夫」
 パットは笑顔をオスカーに向けた。
「すみません、本当に。私ひとりのわがままです、最初で最後とお許しください」
「…あやまられてもな」
 オスカーは素っ気なく言ってから目を閉じた。それでも、その態度はオスカーなりの今できうる限りの“納得”を示していることをパットはわかっていた。
「オスカー様。私もこの先どういった人生を送るのか自分でも皆目見当がつきません。まったく今までとは違うかもしれないし、またどこか新しい主の元で、今までの経験を活かすことになるかもしれないし。私は得意もありませんからね」
「お前ならどこでもうまくやれる。俺がそのときは紹介文書いてやってもいい」
「炎の守護聖様の紹介文ですか?それは凄い!再就職に不安無し、ですね」
「…いや、やっぱやめた。わざわざひとり苦労しに行きたいなんてヤツに、そんな手助け意味がない」
「確かに!」
 パットだけが、軽く笑い声をあげた。それもそう長くなく、すぐさま場には朝の静けさが戻る。
「それで。この先、どんな人生を歩もうと。オスカー様のような方には一生出会えないだろうな、って思ったんです」
「どういう意味だ」
「良い意味ですよ。オスカー様はいつでも私を対等に扱ってくださいました、まるで友人にでも対するように。…身分をわきまえろと随分父からも言われました、たぶんオスカー様も旦那様に似たようなことを言われたことがおありでしょう。でも時にはそんな大人達の言うことにささやかな悪態をついてまで、私たちはいつも一緒に、兄弟よりも近しく今日まで来ました。そんな主を持つ、幸せな使用人はなかなかいないものです」
「したいようにしてたらそうなってたってだけじゃないか。大げさな」
「ふふ、そうですね」
「まあいい。俺にとってはつまらんことだが、この先いくらでも自慢に思って再就職の面接にでも活用しろよ。以前は守護聖様と対等のおつきあいをしてました〜とかってな」
「私の主は、オスカー様であって“守護聖様”ではありませんよ」
 パットはそう言って笑顔を向けた。それから立ち上がり、身に付いた草をはらった。
「私はもう館に戻ります。まだまだここでの仕事はあるんですから。ああ、今朝方オスカー様が壊した厩舎の戸だって早々に直さないと…まったく間際に用事をふやすんだから」
 パットは乗ってきた馬に歩み寄り、鞍の安定を確かめながら言う。
「オスカー様はまだごゆっくりなさっててください。お戻りになるころを見計らって朝食を用意しておきますよ!」
「ああ、頼む!いつも通りの出来じゃないといっさい食わないからな!」
「はは、いつも通りじゃなかったことなどありますか?」
 自信たっぷりにそういってから、パットは馬の背に乗り、場を去った。
 確かに、いつも通りじゃなかったことなどないな。
 そんな当然のことに、いちいちセンチメンタルになってるなんざ…
「俺もまだまだだ」
 視界から遠ざかる姿を見送りながら、そう心で呟いたオスカーを、一瞬強い風が煽った。

(終)


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