THIS IS FOR YOU           


■SCENE/1 OSCAR■

美しい絵はがきに、書くことがない。

 宛名だけは随分前に書いた。問題はそこからだ。いっこうに埋まらないカードの裏面を見つめて彼は溜息をついた。
 こういうことはどうにも苦手だった。自分はなにも、けっこうな名文を書こうとして逡巡しているわけではない。おそらく自分がこういったことがあまり得意でないことなど、この宛名の主は既に知っている。そんなことは互いに千万承知のこと。だからこそ、その名に向けて柄にもないことに挑戦しようという気にもなったのだ。知っている名は多くある、しかしそこに書かれた名がひとつであることには、やはり理由がある。
 だから書くことなど、なんでもいいはずだった。何もカードに刷られた景色についてでなくても、耳に飛び込む初めて聞く言葉、道行くの人々の羽織るケープの柄、今朝ホテルで出されたパンの中の木の実の欠片のことだって、きっとそれが自分の言葉で書かれていれば、素直にほころぶだろうあの頬。まるで目の前にいるかのように、その姿は瞼に浮かぶのに、カードに書くべき文字はいっこうに浮かばないのは何故だろう。
 彼はもう一度、目で宛名を追った。
 思えばこうしてわざわざ名を書くことなど、初めてのことかもしれなかった。いつも側近くにいるのだ。用があれば手紙などしたためる間に人をやるなり、自ら足を運ぶなりする方がよほど早い。
 そんなことを考えていると、自分がよどみなく間違いなく、その綴りを書けることのほうが不思議に思えてくる。いつのまにか自分の記憶に忍び込んで刻み込まれた、この数文字。ひとつひとつにはまるで意味を為さない丸や四角と同じ、記号。なのに、選ばれこの並び方になったとたんに、自分にとって特別のものに変わる。
 幼い頃、厳しい父母の影で自分に甘かった祖母がくれた、文字を型どったビスケットを思い出した。食べるのをいっときだけ我慢して、憶えたばかりの簡単な単語をテーブルに一度作って並べてみる。そうしてそれをご満悦に見入ってから、口に入れた。そんなことで数段美味しく感じられたのだから、まったく簡単だ。他愛ない遊び、他愛ない自分。不細工な丸っこい文字の作る、他愛ない言葉。SUN…、BIRD…、YOU…、LOVE。……LOVE。
 そう、単なる記号だ。順列組み合わせなのだ。この宛名も、これから自分が書こうとしている何かも。もう自分はビスケット相手に言葉遊びをして満足する子供じゃない。
 「宛名」の君には用はない。目の前の君。手の届く君。カードを受け取って喜ぶ顔を想像するより、実際目の前でそれを眺めるほうが良いに決まっている。自分は自分の言葉で、直接伝えたい。見てきた景色の空の色を。美しい衣装を見たなら、それを土産に手渡せばいい。パンの中の木の実なんざ、今は鳥にでもくれてやれ!
 彼は座った椅子の背もたれに大袈裟なアクションでもたれ掛かった。同時、開け放たれた窓から吹き込んだ風に煽られ、机上のカードが表に裏にめくれ上がり、足許の、口を開いたままの旅行カバンに、すとんと落ちた。彼はふと小さく笑いを洩らした。
 おさまるべきところにおさまったらしい。書けないのには理由がある。慣れないことはするもんじゃない。宛名だけのカードを手渡せば、それで十分気持ちは伝わる。


■SCENE/2 LUMIALE■


美しい絵はがきに、書くことがない。

 いや、書くことはあるのだ。ありすぎるくらいに。実際に机にはびっしりと文字で埋められたカードが数枚既にある。宛名さえ書けばそれは間違いなく、望みの場所に届く。なのにたったそれだけのことができずに、彼は溜息をついた。
 書いている間は夢中だった。自分の見たのと同じ景色のカード、店先でも随分迷って選んだカード。どうにかして自分が感じたこの思いを伝えたくて、言葉を綴る。そう広くはないスペースに、できるだけ多く言葉を詰め込もうと知らず小さく細かくなる文字。もうこれ以上は無理というところまで書いて、思う。こんなものでは足りないと。
 聳える岩山を照らす夕陽の色は、こんな言葉では伝えられない。思いもかけない見知らぬ人々の親切への喜びは、こんな程度では語り尽くせない。それに出逢ったのが一人でなく二人だったらと思う寂しさは・・・到底文字に書きあらわすことなどできない。
 そう思っても詮もないこと。ここに自分は一人でいることを恨んだところで仕方がない。せめてこうして記すことで同じ気持ちを共有できたら。今の自分の思いの丈を、誠実に心を込めて書けばいいと、何度も思って書き直す。気付けば枚数ばかりが増えていく。
 彼はもう一度、並んだカードに目をやった。
 思えば自分は手紙を書くことが好きだった。時さえ隔ててあまりにすべての場所から遠い、そんな場所に日頃の身を置く以前。遠くに住む祖父母、すっかり会うことのなくなった友人へ。花の美しさに胸打たれ、風の匂いに季節が変わるのを感じるその度ごとに、日々様子を添えた手紙を書いた。そうして後に来る返事、それが便せん何枚にも渡ろうと、素気ない一行であろうと。自分は等しく嬉しかった。
 そう。自分はいつでも、待っていたのだ、返事を。自分の想いをしたためて、それを投函した瞬間から。綴った内容の返答が欲しいわけではない、それを受け取る彼等がどうしているか、それが知りたかったのだ。今この美しいカードに思いを綴ったところで、何より知りたい君の現在は知ることはできない。子供でもわかる理屈。ならばはなから返事のことなど忘れて、さあ書けばいい、あの名を。そんな簡単なことでこんな些細な考え事は終わる。
 彼はまるで一大決心でもするように、ひとたび置いたペンを握りなおした。同時、開け放たれた窓から吹き込んだ風に煽られ、机上のカードが表に裏にめくれ上がり足許に落ちた。慌てて拾い上げようとして、彼ふと小さく笑いを洩らした。
 ここにあの名を書いたとして。それを投函したとして。まだ少しばかりある旅の日々、自分はなんど振り返るのだろう。もう再び戻ることはない、通り過ぎた場所。来るはずのない返事が届いているような気になって、後ろ髪をひかれて。自分はきっと待ってしまう。何より欲しい、その返事を。
 ならば出さずにおこう。出さずにおけば待たなくていい。宛名が無いままさまよう心はいらない。持ち帰ってそして、このカードを共に眺める。ふたりで想いをなぞる喜びを帰途の楽しみとしよう。


■SCENE/3 OLIVIE■

美しい絵はがきに、書くことがない。

 ペンさえ持つ気にもならず、手に入れた時のままの何も書かれていないカードを見つめて、彼は溜息をついた。
 少しばかり目を引く小洒落たデザインだったからと言って、勢い買ったのが間違いだった。自分は、本来の使われ方をしていないものはいくら見目が綺麗でも嫌いだ。カードなら、そこにメッセージが書かれてはじめて、その本来の美しさを放つ。
 そう思っても、何一つ書けない。わかっていた、そんなことは。自分はこうした旅先で手紙やカードを書いたことなどないのだから。理由は単純、好きじゃないから。
 こんなところまで来て、寸暇を惜しんで小さなカードに託してまで、何かを伝えたい相手がいるということ。それはある意味幸福なことなのかもしれないが、自分はそうは思えない。その「相手」から遠く離れた場所にいる、今ここに自分はひとりでいる。そんなことばかりが頭を巡る。今更思い知らなくてもいい、そんな孤独。隣でその笑顔を見ながらでさえ、感じる孤独はあるのに、ひとりでいる時を見計らってわざわざ確認することもない。
 遠い昔、近所に住んでいたクラスメイトを思い出す。彼とはさほど親しいわけではなかったが、一度だけ家に遊びに行ったことがあった。彼の部屋には壁中にピンで彼の父親からの絵はがきが貼られていた。彼は自慢げに一枚一枚その場所の説明を自分にしたが、その笑顔と裏腹に自分の心は沈んだ。驚くほどたくさんのそれは、その枚数の分、彼と彼の父親が離ればなれでいることだけを物語っているように思えたから。
 そのカードを嬉々として見せる少年だって、そんなものを自慢するより父親が側にいることの方を本心では望んでいるはずだ。
 カードにはきっと書いてあるのだろう、息子への愛のこもった言葉。会いたい、この場所の景色を見せたいと。それが嘘だとは思わない。だが、離れていることにも違いはない。その気持ちよりも優先させている何かがあることに、違いはない。
 もう一度、手元の真っ白なカードの裏面を見つめる。自分も、ここに何か文字をひとたび書いたら、あの少年の父親のように都合の良い言葉を並べてしまうだろう。「本心」はそれなのだから他に書きようがない。
 彼は振り返り、窓からのぞく切り取られた高い空を見た。同時、開け放たれた窓から吹き込んだ風に煽られ、机上のカードが表に裏にめくれ上がった。慌てて手で押さえ、風に飛ばなかったことにほっと安堵の息をついたところで、彼はふと小さく笑いを洩らした。
 何も書いていないカードなど、風に飛ぶにまかせても良かったものを、自分は何を慌てているんだろう。まるで見られたくない秘密でも書いてあるように後生大事に。
 そう、字にしていないだけ、ここに実際書いていないだけで。このカードを買った時点で、もう自分はここに今の気持ちを込めてしまった。ペンも持たずに見えないインクで、もう自分は書いてしまった。この景色を君に見せたい、・・・会いたい・・・。
 ごたくを並べたところで、無理をしたところで。心の奥底はこんなにも正直。
 ならば。旅の最後の夜に、このカードに書こう、その想いを。今度は誰にも見えるインクで。とっくのとうに戻った自分の後を追うように、君の元に届くカード。そんな素直じゃない時間差が、今の自分に似合いな気がする。


■SCENE/4 THREE■

 ホテルの部屋のドアが一斉に三つ、廊下に向けて開いた。3人は顔を見合わせてから思わず笑い合う。
「今からあなた方に声をかけようと思っていたところでした」
「・・・気が合うねぇ、ワタシもさ」
「何もそんなに奇跡なわけじゃないぜ」
 オスカーは壁に掛けられた大きな時計を指さす。
「ディナーのスタートには少し早いが、ウェイティングバーで一杯ひっかけるには良い時間だ。考えることは皆同じってな」
 3人はごく自然に歩を揃えてエレベーターへと向かった。今や極めつけのクラシカルなホテルの、創業当時はきっと画期的な近代機器であったろうそのエレベーターは、轟音を立てて彼等の元にゆっくりと上がってくる。
「階段使った方がよほど早いな」
「まあ、急いじゃいないからね、いいじゃない?」
 たまにはこういうのも、とオリヴィエは微笑んだ。
「たま、と言えば・・・」
 リュミエールが閑話休題として口を開いた。
「さきほど・・・部屋で珍しく、子供の頃のことを思い出していたのですよ」
 オリヴィエが即座に彼に向く。
「ホント?ワタシもなんだよ、偶然!」
 驚いているのはオスカーも同じだった。
「へえ・・・俺もだ。3人が時を同じくしてというのも面白いな」
 このホテルのそこかしこに残る過ぎ去った時間の名残がそうさせるのだろうか。3人ともがそんなことを思っていると、目の前の扉がけたたたましいうなり声を上げて開いた。乗り込もうとした足が止まる。中から男が一人下りてきた。
「おっ、これはこれは!」
 小太りの赤ら顔の男に調子良く声をかけられ3人ともに不可解な笑みが浮かぶ。いったい誰だ、という謎は、男の次の台詞によって即座に解かれた。
「新しいのが入荷しましたから、後でまたよろしかったら寄ってくださいね!今度はもっとお気に入りのものが見つかるやもしれませんぜ!」
 ・・・・先ほど、彼から絵はがきを買った。このホテルの、雑貨屋の店主だ。あまりに長々と熱心に選んでいた客として、彼の印象に強く残ってしまったのだろう。
 男はそう言って満面に笑みを浮かべながらさっさと3人の前から消えた。
 口々に呟く。
「・・・何のことだ?・・・お前等の知り合いか?」
「いいえ私は・・・。お二人に心当たりは無いのですか」
「ワタシも知らないよ〜・・・人まちがいじゃないの?」
 場に流れるバツの悪い空気。
 一拍の沈黙のあと、3人は顔を見合わせ乾いたわざとらしい笑い声をあげた。
 その時、エレベーターの扉が閉まりかけた。
「おおっと」
 オスカーが咄嗟に足を挟む。
「まあいい、行こうぜ」
「そうそ、さっきの話の続きのが面白いよ」
「食事の際の話題としては穏やかでぴったりですね」
 互いの子供時代の話などしたことはない。たまにはいいかもしれないと、気を取り直して彼等はエレベーターに乗り込んだ。

 旅先では何かいつもと違った、変わったことをしたくなるものである。

(終)


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