小説『薔薇色の日々』              06

「ねえ?マーゴット」
 その声はやけに甘い響きだった。
「何・・・かしら・・・オリヴィエ。何だかいつもと・・・」
「違う感じ?そんなことないよ」
 オリヴィエとマーゴットは既に互いの息づかいがわかるほどの至近距離にいた。知らず後ずさりする形になるマーゴット。歩み寄るオリヴィエ。彼の手がすっと伸びる。
「・・・絶対、胸元開いてた方が良いと思うんだ、そのドレス。ほら、こんな風に」
「や。やめて、何するの!!」
 マーゴットがそう小さく叫んだ時には、既にオリヴィエの左腕は彼女の背にまわりこんでいた。いくら体格に差があるとはいえ、男の力にはかなわない。
 美しく整えられた指先が、襟元の留め具をひとつひとつ外していく。次第に露になる首筋。
「大丈夫、キレイだよ?・・・長い間隠してたせいかな」
 耳元に、女であるなら誰しもが言葉を失って不思議でない、艶やかな声。マーゴットはそれでも必死に抗う。
 すっと指先がさらされた首筋を撫でた。
「待って!・・・待ってちょうだい・・・!」
 その声に、突然二人の身体は離れた。
「そんな声聞いちゃ、この先はやめておくよ。無理強いはワタシの美学にも反するし」
 うってかわってあっさりしたその台詞に、マーゴットは腰を抜かして座り込んだ。
「え・・・?」
「悪かったね、驚かせて。でも多分、アンタが本当に待ってる手はワタシのじゃないから、ここで引くことで許してもらうよ。・・・じゃ、またね」
 きびすを返し、足早に扉へ急ぐオリヴィエの背を、ぼうっと見つめるマーゴットであった。さっきまでオリヴィエの息が熱かった首筋に手をあてる。
 途端マーゴットの口から言葉が飛び出す。
「あ・・・あなた・・・っ!・・・・やっぱり・・・・・」
「ん?やっぱり?って?」
 思わず振り返るオリヴィエ。血相を変えた女は、ようやっと絞り出すように、それでも大声で、叫んだ。
「アンリの言う通りだったのね・・・っ!!!」
 オリヴィエの耳に、マーゴットの声を聞きつけてきた複数の足音が聞こえる。

彼の言うことが真実ではないことくらい、すぐにわかること・・・。あなた方も気付いているでしょう?

「そりゃわかってたけど・・・・おぼっちゃんの手回しも結構早かったみたいよ、リュミエール」
 小さく呟いてから、手の中のものを今度は自分の首にかける。そして今一度マーゴットを振り返った。
「悪いけど、この素敵なアンティックのペンダント、借りてくね〜。用が済んだら返すから」
「信じてたのよ?あなたのこと・・・アンリが何と言おうと・・・」
 怒りに震えながら感極まるマーゴットに、オリヴィエは言った。
「母親なんだから息子のほうを信じておやりよ。気持ちはウレシイけど、ワタシとアンタは真っ赤な他人なんだしね。じゃ、ばいば〜〜い」
 オリヴィエはウィンクひとつを最後の挨拶に、扉を閉じた。そして近づく足音とは逆方向に脱兎のごとく走り出す。
「さて。リュミちゃんはどうしたかな〜〜〜〜あ!」


「リュミエール・・・」
 呼ばれてやおら立ち上がる。膝に乗せていた小振りの竪琴が、床に落ちて鈍い音を立てた。
「我の今の望みはただひとつだ」
「も・もうおっしゃらなくても結構でございます」
「いや。言わせてもらおう、元よりそなたが聴けと言った内なる声、なのだから」
 既に目の前に迫るその頑健そうな体躯は、リュミエールの平静を奪うに十分だった。
「それとも、不粋だから皆まで言うなと・・・そういう意味か、リュミエール」
 妙に和らいだ口調が、なおのことリュミエールの肌を粟立たせる。
 そうこうしている間に、ガストンの手が目の前にまで伸びてきた。
「この城でずっと。そう・・・我の絵を描き、我のために楽を奏で・・・豊かな日々を過ごそうではないか。欲しいものはすべて与えよう、我にはそれだけの力がある」
 リュミエールはきつい眼差しを向けた。
「心底・・・望みはそれだけなのですか」
「他に何があるというのだ」
「あなたのその心の虚ろ・・・己の欲のままにあらゆるものを力で手に入れ、その虚しさ故に空いたものだと先ほどあなたは言った。・・・ならば、今あなたが私を手中にしようとすることもまた同じこと、同じ虚しさを呼ぶだけ」
「そうかもしれぬな。だが我はこのやり方しか知らんのだ」
「決めつけてはいけません!私など単に目新しく映るだけのもの、心底の内なる声はもっと別の・・・」
「何を説こうとしているか知らぬが・・・後でなら聞こう」
 リュミエールの言葉は領主の大声で遮られた。これ以上の説得は無理だ。

良いこと教えてあげる、必殺技。

 本当に、本当に必殺技、なんでしょうね・・・・。
 リュミエールは心ですがるように呟いてから、領主の手から逃れ、後ろに飛び退いた。思わずぶつかり、窓が外に開く。強い風がリュミエールの長い髪を煽った。
「お待ちなさい、ガストン」
 その声は低く静かに、やけに通って部屋に響いた。リュミエールは一時目を閉じ、覚悟を決めたようにゆっくりと、重々しく口を開いた。

「私に触れると・・・・厄災が起こりますよ・・・・この地にも御身にも。それでもよろしいか!!」

 窓より差し込んだ閃光が、領主の瞳を貫く。直後の激音。落雷、しかも間近だ。舞台効果は上々だった。・・・むしろ上々すぎた。
 確かに領主の動きは止まった。が、その顔色は蒼白に変わっている。
「そなた・・・何者だ・・・・っ!!!」
 ガストンの声とともに、部屋の扉が開け放たれた。領主は振り返り、駆けつけた城の者に大声で言った。
「良いところへ!アンリの進言通りだ、こやつを捕らえろ!!しかも怪しい力がある、気をつけろ!!」

リュミエール、忘れるなよ。俺達はその昔の誰かさん達と違って人情話の主役になりに来たんじゃない。

「オスカー・・・これでは人情話どころか・・・とんだ妖怪奇譯の主役・・・」
「リュミエール!!ブツブツ言ってる場合!?」
「オリヴィエ!?」
 馴染みの声に喜んだのも束の間だった。
「・・・なんでこっちもこーゆーことになってんのよ〜〜」
 オリヴィエも既に囚われの身であった。


これで一番の要注意人物は彼ということに。・・・オスカー、くれぐれも気をつけて。

「近くに落ちたな、領主の城の方だ」
 オスカーはアンリに言う。リュミエールの言葉を思い返していたのを見計らったような落雷の音だった。二人の間を湿気を含んだ重い風が吹き抜ける。
「でも・・・あちらの城が騒がしいのはそれが理由ではないようですよ、オスカー」
 丁寧な言葉遣いはまるで変わり無い、が、既にその声色はオスカーの見知るアンリのそれではなかった。
「お仲間のお二人・・・あまりこうしたことがお得意ではないようですね。意外に早かった」
「どういうことだ」
「父と母の話し相手を悠長にやっていられるようなやさ男達は、計画に必要ではなかったということです。鍵さえ手に入れば用はもうない」
「何・・・!」
「あなたは役に立ちそうだから、選択権をあげてもいい。・・・聞くまでもないでしょうか?下賎な泥棒稼業より、私とともに行動したほうが将来も明るい。この城には既に値打ちのある美術品などひとつもないし」
 アンリは嬉しそうに含み笑った。
「あなた方もとんだ無駄足です。・・・今やあの塔は、宝物蔵ではなくがらくたばかり。塔の鍵は既にある、私が父の元から既に探し出して。とっくのとうにめぼしいものは換金してしましました。そんなことは父も知りませんがね」
 再び、今度は遠くに落雷の音が響く。
「・・・もう父の下で使われるのは飽き飽きです。それでも真面目に仕えれば、彼も早々に隠居の道を選んでくれると思ったのに、未だあれこれ口だけは出す。たかだかこれっぽっちの領地を守ることくらいで・・・志が低いと言わざるを得ません」
 アンリは遠い眼差しで空を大きく仰いだ。
「いっぱしに虚しさをおぼえることなど、この地上のすべてを手に入れてからにして欲しいものです。私は違う。こんな領地の跡を継ぐ為だけに生まれてきたんじゃない」
「・・・ほう、随分でかい夢だ。野望に漲る若様ってのもなかなか格好いいぜ」
 アンリは薄く笑ってオスカーを見た。
「じゃあ、オリヴィエが手に入れた、オマエさんも欲しがってる例の鍵ってのは何の鍵だ」
「あの塔の最上階にある・・・我が家に以前より伝わるものであるらしい、箱の鍵。中は私にもわかりません。だから開けてみたいのです。見た目ただの古ぼけた箱なのですが、私はそれを見る度、何か得も言われぬ力を感じる」
 やっと明らかになる全ての発端。自分達の最終目的。
「きっと・・・私の望みを叶えるに必要なもののはず。あれさえあれば・・・あれが手に入る時が私の計画の実行の合図と決めていたのです。やっと手に入る・・・今頃はあの軽薄な男の手から私の手の者へと鍵は渡っている」
「そこまでやって、まだ何かの合図なんかが欲しいか?」
「私が欲しいのは、言ってしまえばこの世のありとあらゆるものすべて」
「その志の前に、たかだかこの城の物さえ手に入れられないのではどうしようもない、ってことか」
「その通り!オスカー、きっとあなたならわかってくれると思っていました。その瞳に湛える光、ただの盗人で終わらすには惜しいと、出会った時から」
「・・・・馬鹿か!」
 オスカーは思いきり足を振り上げた。アンリは不意をつかれて簡単にその身を蹴り飛ばされた。
「いっぱしに世界征服なんか考えてるなら、その人を見る目の無さを考えてからにして欲しいもんだぜ!!」
 雨が一斉に降り出した。馬のいななきが聞こえる。度々落ちる雷に加えてこの雨で、パニックを引き起こした一頭がこちらへものすごい勢いで駆けてくる。
「丁度良い、悪いが借りてくぜ」
 打ちのめされて立ち上がれないアンリを飛び越え、オスカーの横をすり抜けようとしたその馬のたてがみを間一髪で掴む。馬のいななきが再びとどろいた。オスカーは強引にその背に乗り込み、馬場の木柵を越え、その姿はあっという間に豪雨の中に消えた。一瞬の出来事は、とうてい繊細な男の所作ではなかった。


 二人は既に領主の城の地下牢に入れられていた。
「だからさあ、何でリュミちゃんとこも騒ぎになってたのよ。ワタシの場合は、きっと鍵をゲットしたとたんにおぼっちゃんの手の者が速攻、って手はずになってたんだろうけど、アンタのほうはそこまでは」
 オリヴィエは石造りの牢の冷えこみに震えながらも、まだ余裕ありげだ。
「・・・・あなたのお陰ですよ・・・例の必殺技・・・。本気になどしなければ良かった。ならば、こんなことには」
 憤懣やる方なしといった風情で、リュミエールはオリヴィエに顔も向けずにはき捨てる。
「え?・・・もしかしてアンタ・・・あれマジに・・・・?」
「嘘だったと?今更??」
 リュミエールの剣幕にオリヴィエはたじろいだ。
「あ、いや、そうじゃなくてさ〜・・・なんていうの、明るい口調であの台詞言ってその後にっこり、ってカンジに・・・」
 水の守護聖の、一向に的を得ないといった表情にオリヴィエは深く肩を落とした。
「・・・あ〜・・・演技指導もしとくべきだったよ・・・」

「オスカーはどうしているでしょう」
「アイツのことだから、心配いらないとは思うけど・・・あ!でも、ワタシタチのこの状況、知らないで呑気に馬の世話してたりして?」
「そちらの方が未だ良いかもしれない」
「さすがお優しい。・・・あーあ、ただ待つ身ってのは辛いねぇ」
 オリヴィエの大袈裟なため息に、リュミエールは思った。
 この騒ぎを知って黙っているオスカーではない。強引なやり方も辞さず、この状況を打破しようとするだろう、・・・ひとりで。万一窮地に陥っていたら。いや、窮地どころかもっと最悪の結果さえ。
 不吉な想像を振り払う。今考えることではない。
 リュミエールは微笑んで言った。
「待つ身の方が幸福ということもあります、オリヴィエ」

 その時、上方で何やら騒ぎの起こっている音が聞こえた。急な石段を転げるように下りてくる人影。
 オリヴィエとリュミエールは同時に声を上げた。
「オスカー!!!」
 くだんのうわさ話の主は言った。
「あんまり・・・世話かけんな・・・」

つづきを読む
| HOME | NOVELS TOP |