いつの頃からか、我は白昼夢を見るようになった。あり得ぬ幻が見えるのも、この身が老いていよいよ死も間近となったからだろう。
 死など元より怖ろしくはない、むしろその為このようなものが見れるのであればなおのこと。そう心底思われるほど、それは美しい夢だ。

 決まってそれは「島の離宮」で過ごしている間に現れる。初めはそこにうっすらと霧が湧いたかのごとく微かに漂う気配のようなものだった。
 そのうちそれは次第に像を結んでいくようになる。日に日に、少しずつ。ようやっとその姿がほぼ完全なものとして目の前に現れた時の我の歓喜と感動がいかほどのものだったか、到底言葉になどできない。
 それは人…若い男の姿であった。まず目にあでやかなのは、豊かに腰まで波打つ金糸の髪だ。そこに垣間見える白磁の横顔。血より紅い唇。そして…光の加減でいかようにも輝きを変える瞳。その眼差し。
 ゆっくりと振り返る。離宮を取り囲むすべての木々の枝葉が、音の無い楽器のようにちらちらと揺れている。光が堀の水面を照り返し、飛んで離宮の天井に散る。真昼だというのに辺りは薄暗く、その姿のみ発光し浮かび上がる。長く形のよい足が一歩をこちらに踏み出す。少し俯いて、象牙の指が金の髪を掻き上げる。
 我は動けなかった、指先ひとつ眉ひとつ思う通りにならない。それを目にしている間、息をしていたか鼓動は打っていたかもわからなくなった。現れて消える間はほんの一瞬だったが、我には永遠に近く感じられ、実際消えて後、身の硬直が解かれるまでには相当の時間を要した。
 かたわらの黒い犬も同じ状況だったのだろう。我にのみ忠誠を誓い、一度も命令を聞かなかったことなどない犬であったのに、その事があった後の酷い興奮は、我にすらしばらく落ち着かせることができなかった。
 そうして何があるわけでもない狭く小さな東屋であるこの離宮でばかり過ごすようになった。誰か他に人のある時にはそれは現れぬようだと知ってからは、我はこの離宮に一切の者の立ち入りを禁じた。
 我と、犬だけ。その幻の存在を知り、同じく魅せられる者だけ、この離宮に存在を許した…いや、逆だ。我々は許されたほうなのだ。この離宮の主は、すでに我ではなく、その幻だった。

 姿がはっきりとしてからは、様々な表情や動作なども見ることができるようになった。
 離宮のあちこちを自由きままに歩き回る。誰かがそこにいるように、楽しげに会話している様子であったり微笑んでみたりもする。あるいはその場に座り込んで柱にもたれ、ゆったりと眠るように目を閉じて瞑想する。
 同じ夢の続きを前後も曖昧に細切れに見る、あれに似ている。我らはただそんな姿を日々見つめているだけだ。我にとっては随分の月日が過ぎたが、あの者にとってはおそらくほんの一時のこと。
 どうやら幻のほうからは我らが見えないようだった。見えていたとしても認めるに値しない存在だったのだろう。かまわない、むしろこちらの存在に気付かれたら、もう二度と現れぬものに思えた。
 我と犬は、けしてこちらを向かぬ黄金の精霊が現れて消える間、すべてを見逃さぬよう黙し息を呑み、己のすべてを集中した。精霊の姿がない間は現れるのを待ちながら、その存在に想いを馳せた。
 幻影とするにはあまりに生に満ちていて、人とするにはあまりに聖に満ちていた。あれはいったい何者だろう。あの者はどれだけ自分が輝く黄金かを知っているだろうか?
 ただ長い睫毛が微動するだけで、唇の端が意味ありげに軽く上げられるだけで。髪の一筋が額に落ちるそれだけで。閃光に照らされこの目は眩む、強く迷い無い稲妻がこの身を貫く。
 もし、あの者が現実存在する世界が別にあるとするなら(それはきっとあるのだ)、その世界とは何処にある、どんな世界であるだろう。屈託ない微笑み、どうということはない何気ない動作。その先にあるものは、あの者の瞳に映る世界は。
 そんなことを、傍らに酒を置き犬の喉を撫でながら、日がな一日想像した。
 かように無為に過ぎゆく毎日に、周囲のある者は眉をひそめ忠言し、ある者は憐れむような視線を向けた。
 世界に名を轟かす大帝国の王も人の子、老いにはかなわぬか。太陽は常に王を照らし、月星は王を中心に巡り。望むものすべてを手中にしても、眼前に迫る死には怯え震えるか。世界中の美と贅を尽くした別荘の、街ほどもある広大な敷地の一角で、人を遠ざけ口もきかず、飼い犬とだけ過ごす孤独な余生。
 我は意に介さなかった。奴等は知らぬ、完全なる美の前には、己が存在など塵と吹き飛ぶ。あの黄金の精霊は、我にとって何よりも確かで絶対のものだ。偉大な宗教家や哲学者が躍起になって我に長い時間をかけて説き、けして理解させることのできなかった真理が、精霊が少し首を傾げ目を軽く閉じるだけでわかる。永遠なるもの。この世に在ってこの世ではない時空、その悠久の流れ。我はこの小さな離宮にあって、宇宙にさえ直に触れた。

 それはある日の夕刻だった。あの気配がある。午睡の浅い眠りからすぐに覚醒し、視線をやる。…精霊の現れる瞬間。犬は離宮の隅で我より先にまんじりともせず身を固めている。
 いつものように動向をうかがう。今日は何かを探しているようだ。失せ物…いったい何を。そう思った瞬間、我は気付いた。いつもその指にはめられていた指輪がない。これだけの月日、あの者だけを注視していたのだ、間違いない。
 精霊はしばらく辺りを見渡していたものの、すぐにそれもやめてしまった。さほど大切なものではないのか。
 その時、我の中に長らく忘れていた感情が喚起した。───欲しい。
 今の我にとっては総身の毛が逆立つほど、大それて不遜な願いだ。叶わぬ事と知りながら、我はその指輪を心底欲した。
 するとあったのだ、我の横たわるカウチの足下。薄く発光し、まるで生き物のごときぬるい熱を放っているように思われた。ゆっくりと身体を起こしカウチを降りる。手を伸ばす。指先が触れる。深い碧の石のはめ込まれた指輪は、我の手の中に簡単に転がりこんだ。激しい動悸を抑えながら顔を上げる。
 思わず目を見張った。
 あの者がこちらを向いている。
 初めて…我はかの姿を初めて真正面から見た。あまりに遅い足取りで、精霊は我に近づいて来る。
 高い塔の上から羽が落ちてくるに似ていた。これ以上もなく優雅に柔らかく、風を連れ光を纏い、羽が舞う。世界が、時がゆがんでいる。強いめまいを覚えた。
 足下が、短く鋭い音を立てた。手から指輪が滑り抜け、床に落ちた音だった。
 ふわりと金糸の髪が揺れる。得も言われぬ甘い香りが弾けて広がる。精霊は上体を屈め、床に手を伸ばし指輪を拾いあげた。
「あ…れぇ?」
 声。
「アンタ、最初っからそこにいた?…驚いた、全然気付かなかった」
 あの者の瞳が、我を捉える。我に話しかけている。ああ、あの者には我が何者に見えているのだろう。いや、そんなことはどうでもよい。
「指輪落としちゃってね。探してたんだ、あって良かった」
 精霊はそれを指にはめ直し、満足げに息をついた。それから言った。
「あ、ちょっと聞きたいんだけど。『オリーヴの丘』ってのはどっちの方向?この遺跡ってば広すぎて、どこが何だか…連れに先に行かれちゃってね」
 我は指で小道のひとつを指し示すがやっとだった。
「…あっちね、ありがと。オリーヴ、好きなんだ。見たいと思って」
 微笑して後、踵を返し背を向ける。行ってしまう。これは夢の終わりだ。
「え?」
 あの者が呼び止められたといったように振り返った。我は声を出していない、出そうにも声などにならない。それなのに。
「何で好きかって?…いいけど、変なこと聞くんだね」
 まったくだ、この期に及んで何故我はそんなことを聞くのか。
「フツーに、花も実も好きだけど…同じ名前だからかな」
 同じ名前…。
「そう。オリヴィエ。…オリーヴのことだ」
 オリヴィエ。オリヴィエという名なのか。この目の前の黄金は。 
 “オリヴィエ”は、今度は軽い足取りであっという間に我から遠ざかった。離宮を囲む堀に渡った木橋を渡り、我の教えた小道を行く。こんなふうにここを後にする姿を見るのも、初めてのことだった。いつの間にか我の足下に犬が立っているのがわかる。我らはその後ろ姿を見送る。
 夢は終いだ。もう二度と見ることはない。我は確信し、そのとおり、その後あの者の姿が現れることはなかった。

 日々は未ださして変わらない。我と犬、島の離宮で過ごす。王としての生涯、富で力で、あらゆるものを手に入れた。だが唯一手にすることのできなかったもの、一瞬手にした指輪の代わり、あの夢が落としていったもの…真の平穏が今ここにある。
 我は時折空を見上げる。かたわらの犬も同じくそれにならう。自由気ままに風を連れ、光を纏い。永遠を渡っていく羽が見える気がする。

(終)


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