passage         
07


「リュミエールさんって、ほんと変わった人だなあ…そんな材木の切れっ端、貰ってどうするつもりです?重いのに」
「古い建築資材なら、資料としても役立ちますよ。いいじゃないですか、神父さんも快く譲ってくださったし」
 呼んでいたのは、これだった。私をこの村へと強く引き寄せた磁石。
 私は案内された地下室にいくつも積み上がった製材の中から、ちょうどバイオリン一つ分だけを選び抜き譲り受けた。それは長い間“一定温度”で、きちんと保存されていて、へたな業者が扱うものよりよほど上等なものだった。
 
「で、もういいんですか?他のところは見ないで」
「ええ、十分です。あとはゆっくりこの村でも一回りして帰りますよ。バスもそんなに無いし…あなたは?」
「僕?僕は二三日この村にいるつもりだし。もうちょっと資料とかを見せてもらうことにしてるんで」
 ここで別れましょう。彼は教会の敷地の入り口でそう言った。
「あ、村を一回りするなら、この先の墓地にソニエールとマリーの墓がありますよ。それ見ていったら?」
「ああ、ありがとう。そうします」
「結構大きいから、行けばすぐにわかりますよ。…なんでもね、ソニエールは自分の遺言で『遺体を安楽椅子に座らせたまま埋葬するように』って言い残したって話です。で、マリーはその通りしたって。ほんと奇行ばかりな人物です…何の意味があったんですかね?」
「…さあ…安楽椅子といえば探偵…彼はシャーロック・ホームズのファンだったのでは?」
「あはは!面白いこというなあ!!」
 私達は笑い合った。

「リュミエールさんとご一緒できて何だか楽しかったですよ」
「私もです。いろいろとありがとう」
 そう、私も楽しかった。私はどこか、あの記事に静かに興奮していた。
 …もしかして、“私”を知るものがいるのかと。あり得ないはずの存在でも、いると信じて探している者が、あるいは探し当てた者がいるのかと、そう思って。
「取材、頑張ってくださいね」
「…ええ。僕、諦めませんよ」
 スチュアートは礼拝堂の最上にある十字架を見上げた。
「不思議ですよねぇ、どんなに困難に思えても、惹きつけられてやまないんです、この村に、ソニエールやマリー・デナルドーに。彼らは確かにこの土の上に立って、暮らしてた…バチカンがいないことにしたって駄目ですよ。僕がきっと、証明してみせる」
 私は彼と同じ上空を眺めた。いっせいに鳥の群がいく。敵はいない、導もない。だが、皆迷いなく行く方向を決める、自分だけに感応する磁石ひとつ胸において。
「…あなたが、心底それを求めるのなら、必ず」
「ああ〜…本当に《わが神よ、いつまで、ああいつまでか》って気分ですよ!」
 彼は戯けて肩をすくめて、そばかすだらけの童顔をほころばせた。

 

 ジェイムズ・スチュアートと別れ、私は彼の薦めるとおり墓地へと向かった。
 風にほのかに良い香りが混じる。私のいた頃には無かった…それは行く道の先に広がる、ラヴェンダー畑からだった。見事に丹精された広大な畑は、ちょうど開花の季節を迎えた紫の花々で満ちている。今日はぼんやりと曇った日だからか、その周囲一体、空気の色まで薄紫に染まって見えた。
 けして華やかではないけれど、こぢんまりとして愛らしく、まわりの者を穏やかにさせる。その花はマリーを思わせた。そんな彼女が生涯側近くにいたことは、どれだけフランソワの支えになっただろう。
 フランソワがいて、少し離れた後方にマリー。彼らはいつもそんなふうに少し距離を置いて、でも必ず互いが見える場所にいた。少しもどかしく、でも、そんなふたりの姿を眺めているのが好きだった。
 この地を故郷のように愛したフランソワ。彼を信じ、この村から生涯出ることはなかったマリー。彼らを不幸だと、数奇な運命に翻弄されただけの人生だったと誰が言えるだろう。私達が共に過ごした月日など、瞬きにも等しく短い。とりとめなく浮かんでは消える想い出に、心はいつしかあたたかくなる。
 手を伸ばせば触れられるような光の中に、包む大気に、この地の至るところに。隅々まで、フランソワの、マリーの心が満ちている。私にはそれが見える、その声が聞こえる。
 すでに墓地の入り口は目の前だ。私はいったん立ち止まり、それから方向を変えた。
 行かずともわかる。きっと今もそうに違いない。

「おいおい、帰るのか?ずっと待ってた身にもなってくれ」

 ひどく懐かしい声、その口調。すぐにわかる。私はゆっくりと背後を振り返った。
「…オスカー」
「よう、久しぶりだな」
 そこにいるのがあり得ないような、だがどこかでそれを当然と思っているような。私は不可思議な気持ちで彼を見た。
「…いつ、来たのですか?」
「今さっき。着いたばっかりだ」
 オスカーは笑った。
「パリに着いて、お前の家に電話したらもういなかった。まったく、お前のことだ、あんな記事を見れば黙っておとなしくしてる訳がないと思ってたが…大正解だったな。墓参りするなら、花くらい持ってくるもんだぜ?」
「墓参に来たのではありませんから。もちろん、あの記事に対しての義憤でもなく」
 自分の為に来たのだ、私はそう言った。
「大体、あなたが知らせてくれたことではないですか、それを他人事のように」
「はん、遅かれ早かれ知れるようなことさ。俺じゃなくても」
 そう素っ気なく言う彼に、私は微笑んだ。
「…確かに」
 でも、知らせてくれたことには感謝している。このことを知ったのが、まずオスカーの電話ではなかったら。私はあの記事を、今自分の身の上に起こっている自分のことだと思わなかっただろう。あの記事にあったことは、ソニエール神父やマリー・デナルドーの物語ではあっても、私の物語ではないからだ。
「しかし、そんなことを言いに、ニューヨークからわざわざ?」
 いや、と彼は首を横に振った。
「いや、関連事項ではあるが別件だ。…最初の電話の時にわかってれば、そこで用事が済んだんだがな」
「一体、何の用事…」
「わかったのがその直後だったんだ。お前のところに、発信者不明の郵便物が届かなかったか?」
「…!」
 あの、カード。
「あなただったんですか?あのカードを私に送ってきたのは」
「そうだ、他に誰がいる。たまたま古道具屋で見かけてな。すぐにわかった、俺のことも書いてあるし」
 彼はそこで言葉を切って、やおら空を見上げた。
「…ヤバい、降ってきた」
 彼はすでに走り出していた。振り返り大声で叫ぶ。
「話の続きはまた後だ!とりあえず先に行ってる」
「あ、あの、オスカー!」
 畑のあぜ道に、私はひとり残された。

 空模様のせいか、今までより強くラベンダーの香りが匂い立つ。滴の姿も音もなく降る雨。だが、じっと目を懲らしていると、次第に足下の土の色を変えていくのがわかった。一雨くるごとに季節は巡り、時は行き過ぎる。私の元には木が残る。
 私は手に持った包みを持ち直し、墓地の方向を見やった。
 彼らのことも、ここの暮らしも愛していた。いつまでだっていてもいいと思っていた、心底。だがそれは筋違いだ。私はただ通り過ぎる者なのだと、私の物語は他へ続いて行くのだと。あの二人がそう言った。
「…あとで、手紙を書きますから」
 彼らの…この地上に確かに在った人々の想いが、土に浸みいって奥深く黄金に変わる。私はこれより先もこの地上を。黄金の上を歩いて行く。

 

 村の入り口、楓の木の側。私の目に飛び込んできたそれは、雨に濡れてなお艶やかに光る…スポーツカーで、屋根も幌も無かった。
「……どうしてこういう車を選んでくるんですか…?」
「これしかなかったんだ」
「ええ、あなたの気に入ったのが、ね」
 呆れる私に、彼はまったく悪びれる様子なく高笑いした。
「なあに、大丈夫だ。雨雲なんかすぐに追い抜けるさ」
「だといいんですけどね…」
 深いため息とともに私が助手席に腰を下ろすやいなや、静かな田園に、けたたましいエンジン音が響き渡る。
「文句言うな。別にお前を迎えに来たんじゃないんだ、イヤなら降りてボロボロのバスで帰れ」
 迎えに来たとは思わないが…そういえば話が途中だったのだ。
「あのカードのことですが。あなたからだとは…。宛名の文字が女性の筆に見えたもので、すっかり」
「…ああ、それな…出すのに人に頼んで…そいつが封筒に俺の名を書き忘れたんだ。別にそれでも、他の時なら放っておけたんだがな」
 タイミングが悪かった、と彼は言った。
「おかげでそれきっかけに大喧嘩さ。余計なおせっかいはやくもんじゃない」
 私は悪いとは思ったが吹き出さずにはおれなかった。
「何だ!今日行くはずだったドジャースのホームゲームも反古にしたってのにその態度」
「いえ、あの、それは申し訳なかったですが…あなたも本当に相変わらず…」
「相変わらず、なんだ」
「その、いちいち恋人と喧嘩するたびに“感傷旅行”に出たくなる癖ですよ」
 オスカーは苦々しくアクセルを思いっきり踏み、同時に声を大にした。
「………まったく、お前と知り合ったのが俺の人生の運の尽きだ……っ……!」
 おかげで雨雲は予言通り、あっという間に後ろにちぎれて去っていった。

「ああ、あの台詞。『ヴェール』だ…」
「あ?ヴェール?」
「いえ、小説のタイトルです。『ヴェールをとらぬ下宿人』…思い出せなかったんですけど、今ふと」
「ホームズか。お前こそ相変わらず好きなんだな、あのいけすかない探偵が。しかもよりによって一番つまらない話だ」
「そういうあなたも読んでるんじゃないですか」
 あの小説はシリーズの中でももっとも短い話で、ホームズがただ依頼人のうち明け話を聞いているだけの一風変わった一編だ。
「私は案外好きですよ、あの話」
 華麗な謎解きもない、打ち倒すべき敵もない。名探偵は深い同情と敬意を謎めいた女主人に示して幕を閉じる。
「ひとつくらい、そんな話があってもいい」
 私がそう言ったとたん、車が悲鳴のような嘶きを上げた。オスカーが急ブレーキをかけたのだ。
「な、何事ですか?」
「…ヒッチハイカーだ…」
「ヒッチハイクって、あの、だってこの車ふたり乗り…」
「ああ、だがたぶん、乗せない訳にはいかないと思うぜ?」
 俺は視力には自信があるんだ、オスカーはそう言った。
 私はおそるおそる前を見た。掲げた紙に書かれた行く先は“ NICE”とある。見覚えのあるトランク、金の髪の色。

───運命という奴は本当にわけが分からない。これから先何か良いことがない分には、人生なんて悪い冗談。

 知ってか知らずか、偶然か必然か、そんなことはどうでもいい。他のことはいざしらず、この運命だけは今更免れようもなく…面白い。

(終)


| HOME |