僕等は風の吹く方角へ行く         
06


「さーて、そろそろ例の余興、始めてもらおうか?演目はサラサーテ、ロンドンと同時開始って?」
 すっかり夜の更けきった頃、オリヴィエがそう切り出す。俺の方は半ば忘れかけていた。
「ああ、かまわないぜ。実際、聞いてみたいと思ってたしな」
 それでは、とリュミエールはまた隣室へと立ち、バイオリンを手にして戻ってきた。あのバイオリンは、いささか見栄えがよくなった程度で特にさして変わりはないように見えた。
「私ではサラサーテの演奏には遠く及びません。他の部屋から苦情が来なければいいんですが」
 そう笑って断ってから、リュミエールはバイオリンを構えた。
 感傷的で、時に情熱的な旋律が部屋に満ちる。あの小さく華奢な楽器のどこからこんなに様々な音が出るのかと不思議なほどだ。音色はかすかで息も殺さねば聞き逃してしまうような繊細さであったり、驚くほどの大きな音で鼓膜を打ったりする。だが、そんな意識も初めのうちだけで、いつのまにかこの身は最初の一音が目指した大きな海に漂っていた。
 曲が終わり、天から降るように静けさが戻った。その穏やかな静謐に、今までこの場所に存在した何か目に見えないものの跡を見る。強いて言葉にするなら「生」というのが一番近いかもしれない。俺にとっては永遠なる夢幻だ。

 この演奏なら三流ホテルの安普請を感謝こそすれ他の部屋から文句は出まい。“余興”としては上等すぎと言えなくもなかった。

 

 料理の皿や酒はあらかた空となっていて、パーティは終わりに近づいていることを示している。
 俺の頭は今夜はクリアだ。昨夜の反省も無いではないが、それだけじゃない。昨日にはない緊張が、この夜にはあった。ベットの上がり続けるブリッジのテーブルのようだ。俺達は取るに足りないくだらない会話をし、それに穏やかに笑い合う。ごくありふれた場面、だが淡々とテーブルにはコインだけが積み上がっていくのだ。そして皆気づいている、誰ひとり賭から降りるつもりもないが勝負をつけるつもりも、ないこと。俺達はこの緊張を楽しみつつも、どこかで時間切れを待っていた気がする。

 口火を切ったのはリュミエールだった。今日の昼…ちょうど俺達がリュミエールのホテルに訪問したときだ…当初の予定が変更になって、明日の朝一番の汽車で帰らねばならなくなったのだと、男は告げた。
「二人のおかげで思いがけず楽しい旅になりました、感謝します」
 右手が差し出される。握手をしながら俺はこの男の手をもう一度見る。
「…5フランぽっちの買い物で随分良い思いができた。やっぱり俺の判断に間違いなかったぜ」
 リュミエールは何も言わずにいつもの微笑みを浮かべるだけだ。
 オリヴィエが驚いたように声を上げた。
「5フランって…あのバイオリンが5フランなの?」
「ああ、そうだ。それをリュミエールが高すぎると因縁つけたのが最初さ」
「高い?」
 オリヴィエはぶんっと勢い良くリュミエールを見る。何か言いたげなのを察してか、リュミエールがさりげなく言葉を継ぐ。
「ふふ、今なら高いとは思いません。…意外に良いものでした」
 ヤツはそばに置かれてあったバイオリンケースを手にとって俺に手渡した。
「ケースさえ新しいものにすれば贈り物にもさしつかえないでしょう。あなたが弾かれないのであれば、どうか弾く方に。これは音楽の為に生まれて来たのですから」
「あの演奏を聴いた後じゃ反論もできんな。そうすることにするよ」
 リュミエールは嬉しそうに笑った。
「…では、またの会う日を楽しみにしています。1941年の今日、でしたよね」
 真面目とも冗談ともつかぬ口調でヤツはそう言って、部屋を出た。特に別れの言葉はなかった。

 リュミエールを送り出したあとの俺達に、既にすることはなかった。
「キリもいい、このパーティもお開きかな」
 オリヴィエは部屋の隅で一本だけ忘れ去られたように残っていたシャンパンの瓶を手にとって「これ、もらってっていい?」と聞いた。かまわない、と俺は答えた。 「一人で飲むのに不向きな酒だ。かといって持ち帰るのも面倒だしな」
「じゃあ今日の記念に遠慮なく」
 本当に、そのラベルにこの日の記録が記されてでもいるかのように、オリヴィエはボトルを眼前に掲げた。部屋の灯りがぼんやり透けて、光がガラスの中の液体に幾重にも屈折してみえる。
「それ、美味かったぜ」
「気に入った?なら良かった。ま、ロンドンにもあるでしょ。カシスのリキュール足すと甘いカクテルにもなる」
 恋人との喧嘩のあとにおすすめするよ、とオリヴィエは軽く笑って、そう言った。
 俺はただ合わせるように笑みだけ返した。あの街でカクテルといったらスコッチベースばっかりだ。そんな洒落たのを出す店はどの通りにあるかと、俺は小さな泡を見つつ考えていた。
「じゃあね、また。お帰り気をつけて」
 扉を出ていくオリヴィエの挨拶は、ヤツの台詞の中でも秀逸なものだった。たったの一言でそれからの俺の運命は決定した。
 俺はささやかな敗北感とともに、ひとりで部屋を片づけ明日発つための荷造りをし、カレー行きの汽車の時間を調べてから寝た。もう明け方に近かった。

 

 翌日は真冬の一日にしては比較的穏やかな天気だった。雲は立ちこめているが厚くはない、かすかに日の光も感じられる。風も強くない。…強くなかった、“地上”では。
 外に出る扉が開いた途端、俺は心底、この場所に(しかも金を払ってまで)来たことを後悔した。氷のごとく冷え切った風は、容赦なく俺の顔面を打つ。必要なのは5フランだけじゃなく、冬山登山の重装備だ。
 見晴らしのいい場所は基本的に好きだ。パリを離れる前に、一応見ておいてもいいかと気軽な気持ちだった。だが、これほどの高さとなると予想の範疇をさすがに越える。
 地上300メートル近いというその展望台には、俺以外に人は無い。こんな時期にこんなところへ来るような間抜けで物好きな客など、すでにこの吹きすさぶ強風に飛ばされてしまったに違いない。
 …と、いつまでも愚痴を言っていても仕方ない。
 まあ、何事も経験だ。マントの襟をぴったりと合わせて、風の中に俺は飛び込んだ。

 凱旋門を中心に放射線状に道が延び、それにそって町が出来上がっている。これで一面に雪でも積もっていれば、洒落たブローチぐらいには見えたかもしれない。
 区画整理にまで発揮されるパリの人間の美意識には感心するが、この場所からでは大雑把な感想しかわかない。遠すぎるのだ。パリらしい景観をひとつひとつ味わおうと思うのなら、この展望台は不向きだった。足下で偉そうに両腕を広げているシャイヨー宮と、チェスの駒みたいな凱旋門。英雄達の生きた証の輝きを刻むそれらもこの場所からでは少々立派なだけの墓石だ。それさえあと少しばかり高い所から見れば、他と同じになり果てる。
 みんな違う、間近でみるなら。…ひとたび離れてしまえば、すべては等しく公平に個々の意味など失っていく。

 俺は下を見るのをやめて、顔を上げた。
 何も遮るもののない空。どこまでも果てがない。太陽が貝殻の内側みたいに白く発光して、天は象牙の透かし彫りのようだった。俺の一番好きな色の空だ。
 俺はおぼえたてのメロディをハミングした。それから適当な雲にあたりをつけて話しかける。

 Happy Birthday、そっちはどうだい?

 あんたが神の名のもとに救った幾万もの魂、その数だけ登ることを許された階段。すべてが見渡せる場所からは何一つ見えやしない。だが、そこからなら人間など許して愛するよりほかないと無理なく思えることだろう。
 俺だって、この程度の高さでこれだ。柄でもない。眼下の世界がひどく優しく愛おしく思える。会ったこともないあんたにひとり話しかけてる。あり得ない誰かと、甘く懐かしい想い出話がしたくなる。

 …まあいいさ。今日はクリスマスだ。クリスマスってのは、自分以外の誰かを想う日だ。

 向きの定まらぬ風がごうごうとうなり声を上げる。己の来し方行く末なんぞ知らない、だがかまうもんかと好き勝手な方向へ行き過ぎていく。俺の身体はそのたびに右に左に押しやられた。
 ぼんやり立ち止まっているから突き飛ばされる。無理に抗おうとするから身に重くのしかかる。
 俺はもう一度空を見上げた。
 成り行きは違えど、俺達は似てる。お互い千何百回も誕生日を繰り返して、結局残ったのはファーストネームと、気ままなこの身の自由しかない。
 あんたが風さえ吹かぬ天から世界を見渡すなら、俺はこの風と一緒に行くほうを選ぶ。今欲しいのは風のスピード、風のサラウンド。世界を幾たびも駆け抜け、この地のすべてを取り巻こう。きっと適当に面白いことにも出会う。たまには変わったヤツにも会う。遠すぎて見えない先にはいつでも見飽きた景色しかないが、そこからも「先」だけはある、何かが起こりそうな予感だけが。
 それが俺のリアルだ。

 そう思わないか?
 
 俺は空に一瞥をくれ、エッフェル塔を後にした。やっぱり、登って見える景色より、ニョキニョキ生えてく過程のほうがまだしも面白かったに違いない。

 

 それから二年の月日がたって、俺は再びあの塔を眺めている。その間にあったことは、そのうち話したくなるときも来るかもしれないが、どっちにしろ大した話じゃないから、期待はしないほうがいい。
 部屋の隅のバイオリンケース。中にはそのままあのバイオリンが入っている。俺は律儀だ、ケースは言われた通り新しくした。それを買いに行ったカムデン通りの楽器屋で、そのバイオリンはずいぶんと褒められた。
 名の知れた職人の作というわけではないが、かなり古い時代のものだ。なのに木も良い具合だし、とにかく状態が極めて良好。
 それなら、と俺は店の主人に説明をした。
「行きずりのヤツが直してくれたんだ。初めは見るも哀れなボロだった」
「そりゃ名工に出会ったもんですな。良いバイオリンってのはプライドが高いんです。初めて出会う者になんか、そうそう心は許さない」

 あなたが弾かれないのであれば、どなたか弾く方に。

 まだ手元にあるということは、俺はヤツとの約束を守っていないということだ。そうまで言われるものを、適当にほいほいやるわけにもいかない。考えあぐねているうちに、二年などあっという間だ。いっそヤツに預けてしまったほうがいいんじゃないかとさえ思っている。レンヌとやらがどこだか知らないが、そう遠くないはずだ。いずれ気が向いたら持っていってやろうか。パリでこうしてぶらついていたら、アイスクリーム屋にもばったり会うかもしれない。そしたら一緒に訪ねるのでもいい。
 ああ、そうか。いっこうに気が向かなくても、ばったり会わなくてもいい。とりあえず50年後には約束があるんだった。その時で別にかまわないか。

 階段をぱたぱたと上がってくる足音が聞こえる。マダム・ロネ…この下宿の家主だ。夫の遺した家と恩給で、けなげに下宿屋をきりもりしている彼女の人生を考えるに、何をそんなに慌てる理由があるのかと、いつも思わせるせわしない足音だ。
「まあぁ!ブリンナーさん!!」
 ノックと同時、いやノックは無かったかも、とにかく扉が開くやいなや彼女の絶叫が響き渡るのは毎朝のならわしだ。
「まだそんな格好で。時はあなたが思うよりもずっと早く過ぎていくのよ!!私もあなたくらいの年の頃は知らなかったけれどね」
 彼女はそう言って、ベッドから俺を追い払うことにいつものように常勝し、そのまんまるで短い指でシーツを一気にひっぺがした。
「食事はいつもと同じでかまわないわね…ああ、今から鴨のローストが食べたいといっても無駄よ、もう用意してあるんだから。持ってきてもいいわね?その前に顔を洗って…水が冷たいからってサボっちゃダメ、朝食はきちんと目を覚ましてから食べなきゃ。私の朝食にありつきたいならそれが条件、だってそうでもなきゃ通りをうろつく犬にでもやったほうがまだしも喜ぶ顔が見れるもの、私は迷わずそっちを選ぶわ、あなただってそうするでしょう?ブリンナーさん」
 頷くよりほかない。彼女は満足そうに微笑んで、まるめたシーツを抱えて部屋を出て行った。
 俺は洗面所に向かう。億劫だが仕方ない、彼女のつくる食事は美味いし、この部屋からはあの鉄塔がよく見える。

 そんなわけで、ぐだぐだと続いたくだらない話ももう終いだ。だが聞いてくれて感謝する、おかげでパリでひとつ目的が見つかった。
 若くて美人の、バイオリンの個人教授を探そう。誰にもやるあてがない以上、俺がとりあえずでも弾くしかない。
 俺は律儀だ、約束は守る。

(終)


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