リレー小説『踊るサクリア2』31 by 岸田

 午後の一発目、五時限目は美術である。波乱の予感が誰の胸にも去来する…教育実習生の授業だからだ。そして授業開始のベルから5分が過ぎようとしているのに、まだその教育実習が現れないからだ。
 皆おそるおそる美術室の後ろを振り返る、三人組の指定席。
 オリヴィエは(予告通り)欠席、リュミエールは明鏡止水とでも比喩すべき平静さ、オスカーは不機嫌そうに目を閉じて態度悪く座っている。
「…オスカー…机の上から足はおろすべきです」
 リュミエールは顔を動かさず、彼にだけ聞こえる小声で忠告をした。オスカーは憮然としたまま足をわざとらしくゆっくりとおろした。
「ふん、サボりよりマシだろーが」
 オリヴィエは二時限目終了に姿を消したまま現れない。寮に帰ってフテ寝でも決めこんでるのか、その後も戻って来なかった。
「諍いを起こすつもりなのなら、いないほうがよほど迷惑にならずにすみます。いつまでもつまらないことにこだわって虫の居所が悪いというなら…」
 おとなしくしてるさ、とオスカーはリュミエールの言葉を遮って言った。
「美術の授業はいつだってそうしてるだろ?俺は」
 黙っていればいずれ通り過ぎて終わる。苦手な授業も、苛立たしい教育実習期間も。
 むしろいつもと違うのは。
「………なんだかおまえのほうが機嫌が悪いな」
「そんなことは」
 リュミエールは素っ気なく言ってそれまで読んでいた薄い冊子のようなものを閉じた。
「その本、なんだ?」
「これですか?…先日、私が応募した絵画展の結果が載っている…」
「へえ、発表が出たのか?じゃあ今晩はご馳走だな!」
 リュミエールが何か絵画展に出品すれば必ず何らか入賞し、となれば必ずサユリちゃんが寮の夕食をお祝いバージョンに変更する。彼女の名誉のために言っておくが、それはリュミエールだけに限ったことではなく、寮生の誰かに祝い事があったときの習わしなのだ。…だがリュミエールの時にはより気合いが入っているようにオスカーは思っていた。ま、そんなオスカーもご相伴に預かっているわけなので、別にそこに文句はない。
「機嫌、直ってきたぜ」
 オスカーは笑った。だがリュミエールの顔は沈む。
「…それが…」
 
「やあ、遅れてすまないね」
 声とともに、教室の扉が開いた。入ってきたのは細身の若い男だった。どう贔屓目に見ても詫びている様子のかけらもなく、一見していけすかない。
 その男は教室を見回しリュミエールを見つけて、笑った。
「へえ…君もこのクラスだったのかい」
「君…も?」
 数時間前のオリヴィエが彼と会っていることなどリュミエールは知らない。
「ああ、こっちの話さ、君らには関係無かったね」
 リュミエールの(ひいてはクラス全員の)疑問はさておき、彼は美術室にあるものを物色し始めた。
 筆を見つめたと思えば近くにあったパレットに絵の具をありったけ絞り出し、手にしたその筆でぐちゃぐちゃと混ぜて放置。きちんと揃えて立てかけてあるイーゼルを、乱暴にひとつひとつ確かめる。
 初対面だというのに、名乗りもしない。生徒たちは彼の動向を見守るしかなかったが、一向に授業らしきものが始まる気配はない。
 美術室をぐるり歩き回り、一通りチェックし終わったのか、彼はちょうどリュミエールの席の横で足を止めた。そして呟くように独り言を…いや、リュミエールにだけ聞こえるように、言った。
「あ〜あ…。こんな酷く貧しい環境で芸術を志すなんて、一体誰の馬鹿げた発想なんだろうね?ある意味冒涜だよ」
 リュミエールは思わず顔を上げ、彼を見た。彼はすでにリュミエールを見て、笑みを浮かべている。そして顔を動かさず、今度は教室全体によく通る声で言った。
「あとで文句を言われても困るから最初に言っておくけど。僕には教えたいことなんか何一つないよ」
 ざわめく教室。
「じゃあ…」
 ナニしに来てるっていうんだ?オマエは教育実習生だろーが!!
 思わず脊髄反射的に腰を浮かせかかったオスカーの腕を、リュミエールが押さえた。そして代わりにリュミエールが、言った。
「それはどういう意味でしょうか」
「どういう意味か?…はは、見たところちゃんとある、その立派な頭の中はからっぽなのかい?リュミエールくん」
 彼ははっきりリュミエール、と呼んだ。
「…申し訳ありません、私のほうは先生の名前さえ知らないのですが」
「ああ、まだ言ってなかったっけ?それは失礼」
 彼はおもむろに窓辺に寄り大げさなアクションで、シャッとカーテンを引いた。薄暗くなった室内、ナニをし出すのかと思いきや彼はさきほど放置した筆を手に取って、思い切りその白いカーテンに名を書いた…いや描いた。
「セイラン…という名の、何者でもない者」
「……………………」
 沈黙。
 しかし、ここは笑うべきところなんだろうか、もしかして?
 オスカー以下教室の皆の心の内はひとつだった。ただひとり、リュミエールをのぞいて。

《続く》


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